ガウディといえば、天才肌でストイックなイメージがありますが、そのようなイメージになるまでの彼の姿はほとんど知られていません。
この文章では、特にお酒との関わりに焦点をあてながら、ガウディの変遷をご紹介していきたいと思います。
生まれ故郷レウスで育まれた感性と人脈
ガウディ(Antoni Gaudí i Cornet)は、1852年にカタルーニャ州(Catalunya)タラゴナ県(Tarragona)レウス(Reus)で生まれました。父の実家のあるタラゴナ県リウドムス(Riudoms)で生まれたという説もあります。
レウスは、スペイン語で「アグアルディエンテ」(Aguardiente)、カタルーニャ語で「アイグァルデン」(aiguardent)と呼ばれる、ぶどうから造られる蒸留酒の重要な産地でした。
19世紀には、その取引市場としてパリやロンドンをライバル視するレベルになり、「レウス、パリ、ロンドン」(Reus, París i Londres)というモットーも生まれます。
フランスから移民した曾祖父の代からガウディ家は代々銅細工職人で、母方も銅板器具職の家系でした。
そのため、ガウディの父は複雑な仕組みの蒸留器(スペイン語だとアランビック, Alambique、カタルーニャ語だとアランビ,Alambí)も制作していたそうです。
そのような環境で育ったため、ガウディは3次元を把握する空間認識能力に小さいころから長けて(たけて)いました。
また、レウスに生まれ育ったことで、様々な人々との縁も生まれます。
例えば、
カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)レオン県アストルガ(Astorga)の司教館(Palacio Episcopal de Astorga)の設計を依頼したグラウ神父(Joan Baptista Grau i Vallespinós)、学生時代にシウタデリャ公園(Parc de la Ciutadella)のアルバイトを紹介してくれたフォントセレー(Josep Fontsere i Mestre)や友人で助手のベレンゲール(Francesc Berengue)など。
中等教育時代の同級生で外交官になったトーダ(Eduardo Toda y Güell)は、自由に旅に行けないガウディの代わりに、外国で珍しいものを撮影し、その写真を送ってくれました。トーダが発掘した資料は、サグラダ・ファミリアの着想にも一役買います。
レウスに生まれ育ったことは、ガウディが建築家になる上で、大きな意味を持ちました。
「アグアルディエンテ」の製造が盛んだったレウスは、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、約30の生産者、50以上のブランドが集まるベルモット(Vermut)の一大産地へと変化していきます。
モデルニスモの建築家ペレ・カゼレス・イ・タラッツ(Pere Caselles i Tarrats)が設計したエスタシオ・エノロジカ(Estació Enològica) には、レウス産のベルモットや近隣のD.O.ワインについて学べるスペースがあり、ベルモットのテイスティングもできるので、レウスを訪れる機会があれば、ぜひお試しください。
家族を養うためにモンセラットでアルバイト
レウスに住んでいたガウディは、建築専門学校に入学するため、医者を目指す兄が住んでいたバルセロナ(Barcelona)へと引っ越します。
ガウディは5人兄弟の末っ子でしたが、その内2人は小さい時に亡くなったため、兄と姉しか兄弟がいませんでした。
しかし、医者になった兄が20代の若さで亡くなり、母もその直後に亡くなったため、レウスから出てきた父と姉、姪の面倒を一手に引き受けることになります。
まだ、学生だったガウディは、4つの事務所のアルバイトを掛け持ちしました。
アルバイト先の1つであったフランシスコ・ビリャール(Francisco de Paula del Villar y Lozano)の事務所では、モンセラット修道院(Monasterio de Montserrat)の主祭壇後ろに位置する祭室「カマリン」(Camarín)の設計を手掛けます。
「カマリン」は装飾が多めのネオ・ロマネスク(Neo-Romanesque)建築です。「カマリン」からは黒いマリア像の後ろ姿を眺めることもできますので、お時間があれば、立ち寄ってみてください。
モンセラットといえば、「のこぎり山」とも呼ばれる、にょきにょきした奇岩群で知られていますが、その形は、後年のガウディ作品にも大きな影響を与えました。
修道院に覆いかぶさるようにそそり立つ巨岩群は、見るものを圧倒する迫力があります。バルセロナからは少し離れますが、ぜひ訪れていただきたいスポットです。
モンセラット方面に向かうカタルーニャ鉄道(Ferrocarril de Catalunya)に乗車すると、ガウディの最高傑作ともいわれているコロニア・グエル教会(Cripta de la Colònia Güell)の最寄り駅にも停車するので、途中下車して、観光してみるのも良いかもしれません。
モンセラットでは、ベネディクト会(Benedictine Order)修道士オリジナルの胃腸薬として、山で採れたハーブから造る蒸留酒「Aromes de Montserrat」(アロマズ・ダ・モンサラ,日本語で「モンセラットの香り」という意味)を造っています。
もともとは修道士や巡礼者向けに造られていた「Aromes de Montserrat」ですが、今ではお土産として販売されてもいます。
「Aromes de Montserrat」には、モンセラット周辺で作られる「Mató de Montserrat」(マト・ダ・モンサラ)というカッテージチーズにはちみつをかけたものを合わせて、召し上がってみてください。
ワイン事業も手がけた
ガウディのスポンサー・グエル
ガウディの最大のスポンサーだったエウセビオ・グエル(Eusebio Güell y Bacigalupi)は、グエル邸(Palau Güell)、グエル公園(Parc Güell)、コロニア・グエル教会など、多くの建築をガウディに依頼しました。
その中には、日本語で「グエル酒造」または「ガラフ酒造」と呼ばれるボデガ・グエル・デ・ガラフ(Bodega Güell de Garraf )もあります。
もともとは狩猟用のロッジを希望していたグエルでしたが、ガラフ(Garraf )にはボデガがたくさんあることから、ボデガを建てることにしたそうです。
1895年から1901年にかけて建てられたグエル酒造。
この時期のガウディは仕事を抱え過ぎていたので、基本設計だけ行い、実設計はベレンゲールに任せます。そのため、グエル酒造はベレンゲール作といわれる時期もありました。
正面から見ると三角形で、横から見ると四角い建物に見える、中世の城郭のようなイメージのグエル酒造は、ル・コルビジェ(Le Corbusier)の建築物にも影響を与えました。
かつては1階部分がレストランとして使用されていたグエル酒造ですが、現在は残念ながら一般公開されていません。
反カトリック主義だった時代に通っていた
カフェ・ペラヨ
カフェ・ペラヨ(Café Pelayo)は、カタルーニャ広場(Plaça de Catalunya)角の旧市街側入口に1875年にオープンし、1895年に閉店したカフェです。
1886年には、バルセロナで初めてのオープンカフェが開かれた、時代の先を行くお店でした。
カフェ・ペラヨには、ガウディのライバルとして知られるルイス・ドメネク・イ・モンタネール(Lluís Domènech i Montaner)の他、医者・詩人・評論家や文筆家といったインテリ層が集い、互いに意見を交わし合っていました。このような集まりは、スペイン語でタルトゥリア (Tertulia)と呼ばれています。
ガウディもカフェ・ペラヨの常連でしたが、モンタネールが参加していた主流派の集いには参加せず、反カトリック主義の集いに参加していました。
そのころのガウディは、レイアール広場(Plaça Reial)の街灯を手がけるなど、新進気鋭の建築家として頭角を現し始めた時期でした。
晩年はストイックなイメージが強いガウディですが、取得するのが難しい建築士の資格を手に入れたばかりの時期だったこともあり、高級ワインや美食を好んだ他、おしゃれな服装に身を包んだり、乗馬や芝居なども楽しんだりするなど、人生を謳歌していたようです。
ガウディらしさが抑えられたカサ・カルベット
1898~1900年にかけて建てられたカサ・カルベット(Casa Calvet)は、繊維会社を経営するペレ・マルティル・カルベット(Pere Màrtir Calvet)の依頼で、ガウディが初めて手がけた集合住宅です。
1893年から1898年にかけては、グエル酒造を除き、サグラダ・ファミリアの生誕のファサードの建設に専念していたガウディですが、サグラダ・ファミリアへの寄付金が底を尽いたため、時間の余裕ができ、他の仕事も手がけるようになりました。
カタルーニャ・バロック様式の建物は一見すると地味な印象ですが、繊維会社らしくボビン型の柱を玄関付近に配置したり、正面2階トリビューン(Tribune,高座)の床下にカルベット家の頭文字である「C」の文字が彫られていたり、細部にはスポンサーを喜ばす様々な工夫が施されています。
椅子などの家具もガウディがデザインし、館内をトータルコーディネートしました。
ガウディ建築は、その独自性から賛否両論を引き起こすことも多いのですが、この作品は機能的かつ芸術的な面が評価され、1900年の第1回バルセロナ市建築年間賞を受賞しました。
現在、1階部分は中国宮廷料理が味わえる「China Crown」というレストランになっています。ワインも飲めるレストランで、館内の装飾を眺めながら、ゆったりお食事するのも良いかもしれません。
カダファルクとコラボしたバー・トリノ
バー・トリノ(Bar Torino)は、マティーニ・ロッシ(Martini-Rossi)のベルモットを広めるため、1902年にイタリア・トリノ(Torino)出身のフラミニオ・メザラマ(Flaminio Mezzalama)が開いたバーです。
ガウディは「アラブの間」(saló Àrab)と呼ばれる第2サロンを担当し、ガウディやモンタネールと共にモデルニスモ(Modernismo)を代表する建築家であるジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク(Josep Puig i Cadafalch)もこのプロジェクトに参加しました。
この作品に参加したことにより、ガウディは1902年のバルセロナ市建築年間賞(商店建築部門)を受賞します。
バー・トリノは1910~11年に閉店しましたが、バー・トリノの姉妹店だったお店は、バー・トリノのファサード(Façade, 建築物正面部のデザイン)の一部を移築し、レストラン・デ・タパス・グリル・ルーム - バー・トーネット(Restaurant de tapes Grill Room – Bar Thonet)として営業中です。
アラカルトメニューが充実したお店なので、ワインのつまみに、いろんなタパスを試してみるのもいいですね。
世界遺産のカサ・ミラで食事とワインを
1906~1912年にかけて建てられたカサ・ミラ(Casa Milà)は、別名ペドレラ(Pedrera,「石切り場」の意味)とも呼ばれています。
うねる波のような独特な形が印象的なファサードは、下の部分はガラフ産、上の部分はD.O.
ペネデスで知られるビラフランカ・デル・ペネデス産(Vilafranca del Penedès)の石灰岩を使用して造られています。
本当はカサ・ミラをマリア像の台座とし、屋上部分にマリア像を建てるはずだったガウディですが、その案が却下されたため、室内仕上げを助手のジュジョール(Josep Maria Jujol Gibert)に任せ、途中降板しました。
ジュジョールはガウディ建築の色彩担当で、グエル公園(Parc Güell)のベンチのモザイクを担当したことで知られています。
カサ・ミラの屋上の煙突の中には、黒いシャンパンの瓶を割って装飾を施したものもあるので、発見してみるのも楽しいかもしれません。
今でも住人が住んでいるカサ・ミラですが、モデルルームのように見学できる部屋もあります。
館内には、カタルーニャ産のワインが飲めるカフェ・デ・ラ・ペドレラ(Cafè de la Pedrera)というレストランもあるので、見学帰りに立ち寄ってみるのもいいですね。
まとめ
1894年に壮絶な断食をし、朝夕に教会のミサ(missa)にも参加するようになったガウディは、晩年はベジタリアンに近い生活をしていました。ですが、キリストの血に例えられるワインはミサに欠かせないので、おそらく一生縁があったのではないでしょうか。
話は変わりますが、ガウディが設計した世界遺産の1つ、カサ・バトリョ(Casa Batlló)が2021年の5月14日、7カ月ぶりに営業を再開しました。館内には、10D体験できるインスタレーションも登場。屋上テラスから降りる階段は、隈研吾氏が新しく作ったものです。
バルセロナへ自由に旅することができるようになった折には、先程ご紹介したスポットと合わせて、ぜひ訪れてみてください。