ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)、ゴヤ(Francisco José de Goya y Lucientes)と共に、スペイン3大画家の1人に数えられるエル・グレコ。
面長な顔や不自然な体のバランス、人工的な色使いなどが彼の作品の特徴で、晩年になるほど、まんがみたいなドラマチックな構成へと変化していきました。
目に見えた現実だけではなく、心象風景を描くことも多かったエル・グレコ。
その人生と彼の作品が見られるスポットをご紹介したいと思います。
エル・グレコとは?
エル・グレコ(El Greco)ことドメニコス・テオトコプーロス(Doménikos Theotokópoulos)は、1541年、ギリシャ・クレタ島(Crete)のカンディア(Candia,現在はイラクリオン(Iraklion))で、商人の次男として生まれました。
エル・グレコとは、スペイン語の男性定冠詞「El」に、イタリア語で「ギリシャ人」を意味する「Greco」を足した、ドメニコスがスペインのトレド(Toledo)移住後に呼ばれるようになったあだ名です。
ちなみに、エル・グレコは、スペイン移住後もずっと、ドメニコス・テオトコプーロスという名を、ギリシャ語で自分の作品に署名しています。
テオトコプーロスは、ギリシャ語で「神の母」という意味です。
クレタ島は、エル・グレコが生まれたころはヴェネツィア共和国(Venezia)の領地で、ヴェネツィア人によってワイン造りが奨励されていました。
レシムノ(Rethymno)では、保存に耐えられるよう巨大な釜で煮詰めたワインを、ワラキア(Wallachia,現在のルーマニア)やポーランド、ドイツに輸出し、ハニア(Hania)とクノッソス(Knossos)では、イタリア向けのさっぱりしたワインが造られていたそうです。
また、ヴェネツィア人は、デザートワインであるマスカテル(Muscatel)の生産にも力を入れようとしていました。
ミノス文明(Minoan civilization,紀元前2000~1700年)が栄えたころには既に、クレタ島のクノッソス宮殿近くに、足踏み式ぶどう粉砕機を使ったぶどう醸造所が存在していたこともあり、もともとクレタ島を含めたギリシャでは、ワイン造りが盛んだったようです。
さて、話を元に戻しましょう。
エル・グレコは、母に連れて行ってもらった教会のフレスコ画に夢中になり、7歳からフランシスコ会(Order of Friars Minor)の施設に住み込み、修道士からイコン(Icon)やフレスコ画(fresco)などビザンティン美術(Byzantine)の複製技術を学びました。
その後、熱心に絵を指導してくれ、精神的な支えにもなった司祭が亡くなったのをきっかけに、19歳のエル・グレコは、画家のもとで修業するため、ヴェネツィアに旅立ちます。
ティツィアーノ(Tiziano Vecellio)の絵に影響を受けていたエル・グレコは、真っ先に彼のもとへ向かいますが、弟子になるのは難しく、まず動物画が得意なヤコポ・バッサーノ(Jacopo Bassano)に、4年間弟子入りします。
ティツィアーノの工房に入ったものの、仕事がないエル・グレコは、ティツィアーノと敵対関係にあるティントレット(Tintoretto)が描く光に衝撃を受け、頻繁に工房に通うように。
その後、高齢のティツィアーノから直接色使いを学んだエル・グレコですが、ティントレットの工房に通っているのがばれてしまいます。
ティツィアーノから、ローマにいるジュリオ・クローヴィオ(Giulio Clovio)のもとでデッサン修行した後、スペインのエル・エスコリアル宮(Monasterio de El Escorial)に行くよう提案されたエル・グレコ。
ローマでは、クローヴィオにファルネーゼ宮(Palazzo Farnese)への推薦状を書いてもらい、肖像画家として活躍します。
ファルネーゼ宮では、トレド大聖堂(Catedral de Toledo)の参事会長でサント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ修道院(Museo Convento De Santo Domingo El Antiguo)の後援者でもある父を持つ、ルイス・デ・カスティーリャ((Luis de Velasco y Castilla)に出会い、親友になりました。
肖像画家としては成功していたエル・グレコですが、もっと大きな仕事をしてみたいと考えていました。
そのころ、システィーナ礼拝堂(Cappella Sistina)にあるミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)作「最後の審判」に裸の人物が多く描かれていることが問題になっていたため、自分ならば、その絵を取り去り、代わりになる絵を描くことができる、と発言してしまい、ローマに居づらくなってしまいます。
エル・エスコリアル宮に移ったエル・グレコは、スペイン国王フェリペ2世(Felipe II)の宮廷画家になることを目指していましたが、建築責任者ファン・デ・エレラ(Juan de Herrera y Gutiérez)に、トレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ修道院で絵を描くことをすすめられます。
サント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ修道院の祭壇に飾る8枚の絵を任されたエル・グレコは、自ら売り込み、トレド大聖堂の仕事も請け負うことに。
このころ、婚約者がいたヘロニマ・デ・ラス・クエバス(Jerónima de las Cuevas)と恋愛関係になり、トレド大聖堂に頼まれた「聖衣剥奪」(El Expolio)に、彼女をモデルにした女性を描きます。
2人は、結婚を反対する彼女の父親の出張中に隠れて結婚。息子ホルヘ・マヌエル(Jorge Manuel Theotocópuli)が生まれました。
完成した「聖衣剥奪」は、聖書に書かれていない3人の女性(マリア)が登場したり、キリストの上部に別の人物の顔が描かれていたりしたため、トレド大聖堂側が作品に納得せず、描き直しを求められます。
しかし、絵を描き直したくないエル・グレコは、トレド大聖堂側が希望する絵を描き上げ、3人の女性が描かれた絵と見比べてもらい、どちらがふさわしいか判断を仰ぎました。
結局、トレド大聖堂側は3人の女性が描かれた絵を選びます。
重病になっていた宮廷画家からフェリペ2世への推薦状を書いてもらったことで、エル・エスコリアル宮用の「聖マウリティウスの殉教」(Martirio de san Mauricio)という作品を受注することができたエル・グレコ。
それからまもなくして、マドリード(Madrid)の実家に住むヘロニマが、2人目の子を妊娠中に、エル・グレコと1度も同じ家で暮らすことなく亡くなり、ショックを受けます。
何とか集中を保ちながら描き上げた「聖マウリティウスの殉教」ですが、作品のタイトルになっている殉教シーンを小さく描き、殉教を決めた話し合いのシーンをメインに描く斬新な構成が王に受け入れられず、宮廷画家になることはできませんでした。
失意のエル・グレコを支えたのは、息子ホルヘ・マヌエル(Jorge Manuel Theotocópuli)と弟子のフランシスコ・プレボステ(Francisco Preboste)です。
たびたび支払いで依頼主ともめたエル・グレコですが、晩年は「トレド風景」(Vista de Toledo)、「ラオコーン」(Laocoonte)など、売るためでなく、描きたい絵を描くようになります。
そのため、エル・グレコの作品でありながら、ホルヘ・マヌエルやプレボステなどの弟子が、仕上げやサインまで行った作品も出てきました。
ホルヘ・マヌエルは父の手伝いをしつつ、建築の仕事へとシフトしていき、父が構想したトレド市庁舎(Ayuntamiento de Toledo)を設計したり、トレド大聖堂の第8チャペルの一部を設計したりしました。
1614年に亡くなったエル・グレコは、サント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ修道院に埋葬されます。
長らく日の目を見なかったエル・グレコですが、20世紀はじめ、マニエリスム(Maniérisme)の復権と共に、再び脚光を浴びるようになりました。
スペインでエル・グレコの作品が見られる場所
これまで紹介してきた文章で、エル・グレコに興味は湧きましたでしょうか。
では、これから、トレドを中心に、スペイン国内でエル・グレコ作品を見られる場所をご紹介していきたいと思います。
トレド大聖堂に描き直しを求められた「聖衣剥奪」は、1577~1579年にかけて描かれた作品で、トレド大聖堂の聖具室正面に飾られています。
トレド大聖堂から徒歩1分の場所には、羊の生乳を原料としたチーズ・ケソ・マンチェゴをグラスワインなどのドリンクと合わせてテイスティングできる「ケソ・マンチェゴ博物館」(Museo del Queso Manchego)があるので、トレド大聖堂を訪れる際には、ぜひ立ち寄ってみてください。
ショップではいろんなD.Oのワインを購入することができますが、地元産D.O.ラマンチャ(La Mancha)のフィンカ・アンティグア(Finca Antigua)のワインが特におすすめです。
サント・トメ聖堂(Iglesia de Santo Tomé)
オルガス伯爵が亡くなる際、天から舞い降りた2人の聖人が埋葬を手伝ったという伝説をもとにした、この作品。
喪服を着た30人の参列者の中には、エル・グレコ本人や「ドン・キホーテ」(Don Quijote)で知られるセルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra)、ファン・デ・エレラなどが見受けられ、手前にはまだ小さなホルヘ・マヌエルも描かれています。
エル・グレコ美術館(Museo del Greco)
ベガ・インクラン公爵(Don Benigno de la Vega-Inclán y Flaquer)のコレクションを展示する美術館で、雲に載るタベーラ施療院((Hospital de Tavera)の前に地図を広げるホルヘ・マヌエルが描かれた「トレドの景観と地図」(Vista y plano de Toledo)などが見どころです。
サンタ・クルス美術館(Museo de Santa Cruz)
エル・グレコが亡くなる1年前に完成させた「無原罪の御宿り」(Retablo de la Inmaculada Concepción)の祭壇画が展示されています。
続きまして、マドリードにあるプラド美術館(Museo del Prado)をご紹介しましょう。
プラド美術館で見逃せないのは、「胸に手を置く騎士の肖像」(El caballero de la mano al pecho)や「聖三位一体」(La Trinidad)、「羊飼いの礼拝」(Adoración de los pastores)などの作品です。
胸に手を置く騎士の肖像
「胸に手を置く騎士の肖像」に描かれた人物は、胸に置かれた手の中指と薬指をくっつけ、他の指を離していますが、これはクレタ島時代の修道士の話によると、聖フランチェスコがエル・グレコに与えた形だそうで、困った時や何かを決める際に、この指の形にすることで、正しい答えが見つかるのだそうです。
ちなみに、この手の形は、ティツィアーノ作の「悔悛するマグダラのマリア」(Penitent Magdalene)など、他の画家の作品にも登場します。
聖三位一体
「聖三位一体」はもともと、トレドにあるサント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ修道院に展示されていた祭壇画の一部で、この作品の下の部分「聖母被昇天」(Assumption of the Virgin)は、現在、シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)が所蔵しています。
2作品セットで見られないのは、ちょっと残念ですね。
羊飼いの礼拝
「羊飼いの礼拝」は、エル・グレコが亡くなる前に、自らのお墓を飾るために描いた絵です。
マドリードでは他に、ティッセン=ボルネミッサ美術館 (Museo de Arte Thyssen-Bornemisza)やラサロ・ガルディアノ美術館(Museo de la Fundación Lázaro Galdiano)も、エル・グレコの作品を所蔵しています。
マドリード郊外にあるエル・エスコリアル修道院では、「聖マウリティウスの殉教」の他、「イエスの御名の礼拝」(Adoración del nombre de Jesús)という作品も所蔵しています。
他に、セビージャ美術館(Museo de Bellas Artes de Sevilla)やカタルーニャ国立美術館 (MNAC)などにも、エル・グレコのコレクションがありますよ。
日本でエル・グレコの作品が見られる場所
(大原美術館 引用元:公式HP)
現在、スペインには気軽に行けないので、日本でエル・グレコ作品を見られる場所もご紹介しましょう。
日本では、東京・上野の国立西洋美術館と岡山県倉敷市の大原美術館で、エル・グレコの作品を見ることができます。
残念ながら、国立西洋美術館は2022年春まで全館休館中ですが、「十字架のキリスト」という作品を所蔵しています。
倉敷の美観地区にある大原美術館では、「受胎告知」がパルテノン神殿風の本館に常設展示されています。
この絵は、倉敷紡績の社長だった大原孫三郎氏が、ヨーロッパに留学経験のある児島虎次郎氏に絵画の買い付けを頼んだ際に購入されたうちの1枚です。
「受胎告知」には、まばゆいばかりの光や上目遣いで天を仰ぎ見る表情など、エル・グレコの絵らしい特徴が随所にあらわれています。
大原美術館の隣には、大原孫三郎氏の長男・大原総一郎氏が命名した「エル・グレコ」という喫茶店があります。
著者は大原美術館を見る前に立ち寄りました。蔦のからまる雰囲気の良い喫茶店なので、ぜひ利用してみてください。
アイスコーヒーをコールコーヒーと呼ぶのに驚いた(関東在住のため)のと、民芸風な落ち着いた店内が印象に残っています。
美観地区では、「土手森」という酒屋で、マスカット酒「葡萄嬢」というお酒も購入しました。
このお店では、倉敷産のマスカットオブアレキサンドリアを使った「倉敷マスカットワイン」というワインも売っているようです。
番外編で、ドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院(Colegio de doña María de Aragón)の祭壇画を陶板で再現した作品が展示される、徳島の大塚国際美術館もご紹介します。
本物ではないですが、きっと、そのサイズと迫力に圧倒されるはずです。
まとめ
以上、エル・グレコについてご紹介してきました。
本当に好きな女性(ヘロニマ)が現れるまでは、いきいきと女性を描くことができなかった、など、不器用で、自分の心に正直なエル・グレコ。
そのため、何かと苦労することも多かったようです。
しかし、今でも彼の描いた作品が多くの人の心を打つのは、きっとエル・グレコが持っていた情熱を、作品から感じることができるからなのかもしれません。
エル・グレコの作品は宗教画が多いので、見てもわからないと敬遠しがちですが、機会があれば、ぜひ、エル・グレコの作品を間近で見てみてください。