降り注ぐ太陽の光と青い空に白い街にイスラムの伝統が色濃く残ったアンダルシア州の食と文化と食について、その歴史も振り返りながら紹介していきます。
アンダルシア州とは
アンダルシア(Andalucía)州はスペイン南部の州で、北はエストゥレマドゥーラ( Extremadura)州とカスティーリャ=イ・ラ・マンチャ(Castilla-La Mancha)州、東はムルシア(Murcia)州、西はボルトガル、南は地中海、ジブラルタル海峡、大西洋に接しています。
アンダルシア州はアルメリア(Almería)県、カディス(Cádiz)県、コルドバ(Córdoba)県、グラナダ(Granada)県、ウエルバ(Huelva)県、ハエン(Jaén)県、マラガ(Málaga)県、セビーリャ(Sevilla)県の8県で構成されています。
典型的な地中海気候で夏はさんさんと太陽の光が降り注ぎ、一年を通して降雨量の少ない地域です。
アンダルシア州の歴史
アンダルシア州を流れるグアダルキビール(Guadalquivir)川河口の古代王国タルテッソス(Τάρτησσος)は紀元前1000年前にはあったとされ、旧約聖書には「タルシッシュ(Tarshish)」の名で記されています。紀元前2世紀には古代ローマに支配され、属州であるヒスパニア・バエティカ(Hispania Baetica)が置かれました。
5世紀には一時ゲルマン系のヴァンダル(Vandal)族の支配を受けます。ヴァンダル人の国という意味の「Vandalicia」がアンダルシアの語源だという説がありますが他の有力な説ではアトランティス大陸を意味する「アル・アトランディア」が語源だと言われています。
その後ヴァンダル族を倒した西ゴート王国がこの地を支配します。そして西ゴート王国が711年にジブラルタル海峡を渡ってやってきた史上初のイスラム王朝であるウマイヤ朝に征服され、「アル=アンダルス(Al-Ándalus)」と呼ばれるようになります。ウマイヤ朝の再興国である後ウマイヤ朝はかつてヒスパニア・バエティカの首都だったコルドバ(Córdoba)に都を置きました。コルドバはその後西方イスラムの経済と文化、学問の中心地として栄え、10世紀のカリブ王国の時代には全盛期となり、その人口は100万人近くにまで達しました。その後8世紀にわたって続くイスラム支配の影響はアンダルシア州の文化に色濃く残っています。
13世紀にはキリスト教徒による国土回復運動・レコンキスタによってイベリア半島のキリスト教化が進む中、グラナダを都としたナスル朝だけは最後のイスラム王朝として15世紀末まで残りました。
1492年、グラナダ(Granada)が陥落し、レコンキスタは終焉を迎え、アンダルシア地方もカスティーリャ王国(Reino de Castilla)とアラゴン王国(Reino d'Aragón)が合併して生まれたスペイン王国に統一されました。他宗教に寛大だったナスル朝時代にはアンダルシアには多くのユダヤ人が住んでいましたが、レコンキスタ後にはキリスト教徒によってユダヤ人が迫害を受けたため、多くのユダヤ人はアンダルシアを去りました。
その後16〜17世紀にスペイン王国はセビリア(Sevilla )を新大陸にあるスペインの植民地への出発地としたため、中南米で現在話されているスペイン語はアンダルシアの方言との共通点がたくさんあります。
アンダルシア地方はローマ時代以前から長年イベリア半島における先進地域でした。しかし、レコンキスタによって大土地所有制となり、植民地との交易で栄えたセビリアをのぞくアンダルシア地方はスペインの中でも貧しい地域の1つとなってしまいました。しかし1978年の憲法で自治州制度が導入された後は観光業の発展に伴って高速鉄道AVEの開業やセビーリャ万博の開催などもあり、州の経済は回復を見せています。
アンダルシア州の文化
8世紀もの長きにわたるイスラム支配により、アンダルシア州では西洋とイスラムの文化が絶妙な融合を見せ、独自の発展を遂げてきました。
スペインの無形文化遺産・フラメンコ
世界的にも有名なスペインの伝統芸能、フラメンコ(Flamenco)。ギターと歌、手拍子と掛け声、激しく打ち鳴らされるステップが織りなす音楽、そして情熱的なダンスとが作り出す世界観は今も世界中を魅了しています。2010年にはスペインの無形文化遺産に登録されました。そんなフラメンコの発祥はアンダルシア州、特にセビリアやカディス周辺のアンダルシア西部だと言われています。
フラメンコの歴史は不明な点も多いのですが、その成立にはヒターノ(Gitano、スペインのロマ族、ジプシー)やムーア人(Moor、イベリア半島のイスラム教徒)、また、ユダヤ人が関わっていると言われています。
19世紀の前半にはアンダルシアで上演されるようになっていましたがフラメンコという名称が現在のフラメンコを指すようになったのは1853年のマドリードで行われる夜会がきっかけでした。1860年ごろからアンダルシアでもフラメンコの名称を使用するようになり、フラメンコを上演する酒場、「カフェ・カンタンテ(café cantante)」がセビーリャで出来たのは1842年のことでした。
また、1960年代にカフェ・カンタンテにとって変わり、舞台のついたバルやレストランである「タブラオ(Tablao)」がスペイン全土に広がりを見せました。グラナダのサクロモンテ(Sacromonte)地区には洞窟を利用したタブラオがいくつかあり、迫力あるフラメンコのショーを間近で楽しむことができます。また、セビーリャには「フラメンコ舞踏博物館(Museo del Baile Flamenco)」があり、毎晩本格的なフラメンコショーの開催を行っています。
闘牛
スペインといえばまず闘牛(Corrida de toros)を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。スペインの闘牛の発祥地はアンダルシア地方だと言われています。しかしそのルーツは中世に円形闘技場で行われていたという記録まで遡れるほどに古く、はっきりとした発祥地は限定できないようです。しかし、現在の闘牛のスタイルの確立にはアンダルシアが深く関わっています。
18世紀までスペインで行われていた闘牛は乗馬した闘士が牛を相手にするものでした。しかし、ロンダ(Ronda、現在のマラガ県にある町)で1726年にフランシスコ・ロメロ(Francisco Romero)という大工の男が落馬した貴族を助けるために馬の視界を帽子で妨げたことをきっかけに、現在の闘牛につながる「マタドール(Matador)、徒歩闘牛士」によるものに変化しました。ロンダ出身のロメロは「伝説の闘牛士」とされ、息子のフアン・ロメロ(Juan Romero)、孫のペドロ・ロメロ(Pedro Romero Martínez)も闘牛士として活躍しました。ペドロ・ロメロはスペイン最大の画家、フランシスコ・デ・ゴヤ( Francisco José de Goya y Lucientes)にその肖像を連作で描かれるとともに、アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)の「日はまた昇る」に登場する闘牛士のモデルにもなっています。
セビリアにはスペインの格付けで第一級を誇る闘牛場である「マエストランサ闘牛場(Plaza de toros de la Real Maestranza de Caballería de Sevilla)」があり、スペイン三大祭りの1つで毎年4月に開催される「フェリア・デ・アブリル(Feria de abril de Sevilla、セビリアの春祭り)」の際には世界最大規模の闘牛大会が行われます。
コルドバ歴史地区
ローマの植民地時代からの町で、ウマイヤ朝の都として栄華を極めたコルドバの旧市街はコルドバ歴史地区として世界遺産に指定されています。
・メスキータ
コルドバ歴史地区のメスキータ(Mezquita)は「円柱の森」と呼ばれる後ウマイヤ朝の785年に建てられたスペインに残存する最大のモスクで、レコンキスタの際に一部が取り壊され、キリスト教会に改築されました。メスキータが建てられているのは紀元2世紀に戦勝祈願のためのローマ神殿があったとされる伝説があり、西ゴート王国の時代には聖ビセンテ教会があった神聖な場所でした。
かつてイスラム教徒が池で身を清めた「オレンジの中庭」、アーチ上部に赤と白の縞模様がモスクの雰囲気を残している「マヨール礼拝堂」、金や青のモザイク装飾が美しい、メッカの方向を示す礼拝所「ミフラーブ」など、イスラム教とキリスト教が混在しながらも不思議に融合した唯一無二の歴史的建造物となっています。
・ユダヤ人街 フデリア
メスキータ近隣にはユダヤ人街、フデリア(Juderia)が広がっています。白い壁に花の鉢植えが飾られたアンダルシア地方らしい街並みが広がるフデリアは人気の観光地です。
その中でも最も有名なスポットは「花の小路」と呼ばれる小さくて狭い袋小路です。白い壁に花の鉢植えがいっぱいの細い路地の向こう側にメスキータのミナレット(Minaret、モスクなどの尖塔)がちらりと見える、絵葉書のような景色が眺められます。袋小路にある土産屋には1200年前のイスラム様式の古い井戸が残されているそうです。
・コルドバのアルカサル
コルドバの歴史地区にあるアルカサル(Alcázar de los Reyes Cristianos)の建造はカスティーリャ王国(Reino de Castilla)アルフォンソ11世(Alfonso XI)によって1386年から開始されました。もともと西ゴート王国の要塞があり、その後ウマイヤ朝の司令官によって要塞が建設されていた場所でした。アルカサルはその後歴史の重要な舞台となります。15世紀末にはカトリック両王 (Reyes Católicos)がスペインの異端審問の場、そしてグラナダのナスル朝を攻撃する拠点として用い、1483年にはナスル朝最後の王、ボアブディル(Boabdil)が監禁されました。レコンキスタが完了した1492年にはクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)がカトリック領王への謁見が行われたのもこのアルカサルでした。
アルカサルはイスラム教徒の職人たちがキリスト教の装飾法を取り入れ、融合させた「ムデハル様式(Estilo mudéjar)」で建てられています。庭園にはコロンブスがカトリック領王に謁見している像が建てられています。
世界最高の建築、アルハンブラ宮殿
グラナダは「アルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン地区」という名称で世界遺産に登録されています。ナスル朝の都だったグラナダには多くのイスラム教徒がイベリア半島全土から集まり、その中にはイスラムの高度な技術を持った職人たちも含まれていました。その当時のナスル王、ムハンマド5世がそれらの技術者を保護し、グラナダに高度なイスラム文化が花開いたのです。
アルハンブラ宮殿(Palacio de la Alhambra)はグラナダのイスラム建築の最高峰と言われ、「イスラム建築の華」と称されることもあります。
宮殿とは呼ばれますが、住宅、官庁、軍隊、モスク、学校、浴場、庭園などさまざまな施設が備えられていて、数千人が居住する城塞都市でもありました。現存するのはナスル朝に建築された部分ですが、もともとは9世紀末の後ウマイヤ朝が築いた砦が原型となっていて、数世紀に渡り拡張を繰り返してきました。
アルハンブラ宮殿の中心的存在の「ナスル朝宮殿」の内部はどの部屋の壁も天井もアラベスクと呼ばれる緻密で豪華な装飾が施されています。「ライオンの中庭」には124本もの大理石の柱が立ち、梁から天井まで緻密な彫刻が彫られています。「二姉妹の間」の天井の「ムカルナス(Muqarnas、鍾乳石飾りの装飾方式)」はその緻密さから「蜂の巣」と呼ばれ、世界最高の建築と称えられることがあります。
世界3位の大きさの大聖堂、セビリア大聖堂
セビリア大聖堂はスペイン有数の規模を持つ大聖堂であり、世界3位の大きさの大聖堂とも言われています。1987年に「セビリア大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館」の一部として世界遺産に登録されました。カスティーリャ王、アラゴン王国(Reino d'Aragón)、レオン王国(Reino de León)、ナヴァラ王国( Reino de Navarra)の4人の王の像に担がれたコロンブスの棺があることでも知られています。
セビリアのシンボルにもなっている高さ98mのヒラルダの塔はミナレットを鐘楼に転用したもので、大聖堂は15世紀から120年ほどの時をかけて完成した奥行116m、幅76mの幅広い形で、かつてここがモスクだったことを物語っています。内部には大量の金を用いて装飾された木製の祭壇があり、マリア信仰の中心地らしく中央にはキリスト像ではなくマリア像が鎮座しています。
アンダルシア州の食
野菜たっぷりの冷製スープ ガスパチョ
ガスパチョ(Gazpacho)はスペイン全域とポルトガルで食べられている冷製スープです。1800年代初頭の文献にもそのレシピが残っているというアンダルシア地方の伝統料理です。
労働者がパン、にんにく、酢、水で調理したのがその始まりと言われ、その後19世紀になるとトマトやきゅうりなどが使われるようになりました。アンダルシア風、と呼ばれるレシピではクミンが使われ、イスラム文化圏の料理の影響を感じさせます。
もともとはモルテーロ(Mortero)と呼ばれるすり鉢で作られていましたが現在はミキサーを使って作るのが一般的です。トッピングとして細かく刻んだ玉ねぎやトマト、ピーマン、きゅうり、ゆで卵、パンなどを添えることもあります。ガスパチョはトマトの入った赤いものが一般的ですが、トマトの入らない白いガスパチョもあります
タパス
タパス(Tapas)といえばスペインバルで提供される小皿料理として今や日本でも有名です。このタパスの発祥地と言われているのがセビリアです。あるセビリアのバーテンダーがシェリーに虫が入るのを防ぐためにパンを伏せたものが始まりと言われています。
アンダルシア州のタパスで有名なのはグラナダです。グラナダのバルでは飲み物を頼むと無料でタパがついてくるのが当たり前。グラナダは数軒のバルをはしごすればお腹が満たされてしまう、という嬉しい街なのです。
サルモレッホ
サルモレッホ(Salmorejo)はトマトとパンから作られるコルドバ名物のスープです。ワインビネガーやパン。にんにくが使われ、ガスパチョの作り方に似ていますが、よりクリーミーで使われる野菜もほぼトマトのみ、というシンプルなもの。トッピングで茹で卵やハモン・セラーノを加えることもあります。濃く作ってソースとしても使われます。
フラメンキン
フラメンキン(Flamenquin)は生ハムと茹で卵を薄切り肉で巻き、揚げたロールカツで、コルドバやハエンの郷土料理です。フランメンキンという名前はフラメンコの踊り手の足に似ていることからこの名前がついたとされています。フランメンキンはとてもポピュラーな料理で、スペイン全土の肉屋で揚げる前の状態で売られています。
セラニート
セラニート(Serrranito)は「メソン・セラニート」というバルが発祥のセビリアの名物料理です。パンと豚肉、トマト、生ハム、焼きピーマンが挟まったサンドウィッチで、セビリアではファストフードよりも人気があります。注文すると大量のフライドポテトがついてくる、お財布にも優しい庶民的な料理です。
ほうれん草とひよこ豆の煮込み
ほうれん草とひよこ豆の煮込み(Espinacas con garbanzos)はセビリアのバルの定番料理です。かつてはイースター前にのみ食べられる料理でしたが、現在では一年中食べられています。クミンが効いたスパイシーな味付けで、暑いアンダルシア地方の気候でも保存が効くようにと工夫された調理です。
シェリー酒
シェリー酒(Sherry)は「Vino de jerez」と呼ばれるカディス県へレス・デ・ラ・フロンテーラ(Jerezde la Frontera)発祥の、ブランデーを足して作られる酒精強化ワインです。
へレス・デ・ラ・フロンテーラの古い地名である「シェリシュ」が転じて英語であるSherryがこのワインの名称として定着しました。シェリー酒がイギリスに伝わったのは海賊が奪ったものが巡り巡ってロンドンに渡ったことがきっかけだ、という説があります。また、マゼラン(Ferdinand Magellan)が保存が効くとして航海の前に買い込んで船に乗ったため、シェリー酒は初めて世界一周したワインだと言われています。原産地呼称産地名は「ヘレス=ケレス=シェリー(Jerez=Xérèz=Sherry)」といい、スペイン語、フランス語、英語での地名を連続させたものになっています。
シェリーにはフレッシュでコクとキレのある「フィノ( Fino)」、フィノの熟成途中で産膜酵母が消え、酸化熟成した、ほのかにお醤油の香りのする「アモンティリャード(Amontillado)」、17%までアルコールを加えた「オロロソ(Oloroso)」、天日干ししたモスカテル(Moscatel)のぶどうを使った極甘口の「モスカテル」、天日干ししたペドロ・ヒメネス(Pedro Ximénez)のぶどうを使った極甘口の「ペドロ・ヒメネス」の5タイプがあります。
アンダルシア州のワイン
アンダルシア州で栽培されるワイン用ぶどう品種は、シェリーの原料である白ぶどうのパロミノ、ペドロ・ヒメモス、モスカテルが主なもので、スペイン全土で見られるガルナッチャ(Grenache)やテンプラリーニョ(Tempranillo)なども少量ですが作られています。
まとめ
太陽が光り輝く青い空と白い街のアンダルシア州は世界がスペインに求めるイメージを体現したような地域です。シェリー酒とスパイスの効いたタパスを用意してアンダルシアの地に想いを馳せてみる、そんな楽しみ方も良いかもしれません。