ゴヤ・情熱と反骨精神で巨匠へと上り詰めた人生 ゴヤ・情熱と反骨精神で巨匠へと上り詰めた人生

ゴヤ・情熱と反骨精神で巨匠へと上り詰めた人生

ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)、エル・グレコ(El Greco)と共に、スペイン3大画家に数えられるゴヤ。

この文章では、ゴヤが3大画家になるまでの過程とゴヤ作品が見られるスポットをご紹介します。

もし文章を読んでゴヤのことが気になったら、ぜひ作品を見に、最寄りの美術館を訪れてみてください。

ゴヤの前半生~立身出世に邁進(まいしん)する日々~

ゴヤは、1746年、アラゴン州(Aragón)のフエンデトードス(Fuendetodos)で生まれました。

ゴヤの本名は、フランシスコ・デ・パウラ・ホセ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco de Paura José Goya y Lucientes)です。

母親の実家があるフエンデトードスは、スペイン第5の都市サラゴサ(Zaragoza)からは約50km 離れた場所にありますが、ぶどう品種カリニェナ(Cariñena)の原産地として知られるカリニェナまでは約25km、車で約30分、と至近距離にあります。

害虫フィロキセラ(Phylloxera)の影響で、現在はカリニェナでなくガルナッチャ(Garnacha)を中心に栽培するD.O.カリニェナ。

おすすめボデガは、ボデガス・エステバン・マルティン(Bodegas Esteban Martín)です。

ボデガと同名のワイン以外にも、ビーガンフレンドリーなワインや度数が低めのスパークリングワインなど、家族経営ならではの、オリジナリティあふれるラインナップが特徴なので、ぜひ1度お試しください。

さて、ゴヤに話を戻しましょう。

ゴヤの父は金メッキの職人で、サラゴサにあるエル・ピラール大聖堂(Basílica de Nuestra Señora del Pilar)で彫刻のメッキの仕上がりをチェックする仕事をしていたこともあります。

ゴヤの母は、地元の下級貴族の娘でした。

ゴヤが生まれた後、サラゴサに戻ったゴヤ一家。

エスコラピオ修道会(Ordo Clericorum Regularium Pauperum Matris Dei Scholarum Piarum)で初等教育を受けたゴヤは、終生の友マルティン・サパテール(Martín Zapater)と出会い、遠く離れても手紙でのやり取りを続けます。

10代で、後に義理の兄となるフランシスコ・バイユー(Francisco Bayeu y Subías)も通っていた、ホセ・ルハーン(José Luzán Martínez)のアトリエに入ったゴヤ。

17歳になってから、マドリード(Madrid)にあるサン・フェルナンド美術学校(Real Academia de Bellas Artes de San Fernando)の奨学生選抜試験を2度受けますが、審査員だったバイユーの弟などが受かったため、奨学金を受けることができず、その後5年間消息不明になります。

その間、イタリアでフレスコ画の技法を学んだことはわかっていますが、何をしていたのかは正確にわかっていません。

喧嘩好きで、狩猟好きでもあったゴヤ。一説には闘牛をしてお金を貯め、ローマに渡ったともいわれています。

その後、1771年にバイユーの弟子と名乗り、イタリアでコンクールに応募しますが、賞は逃しました。

同じ年、他の画家より安く見積もりを出したことで、サラゴサにあるエル・ピラール大聖堂の天井画の仕事を受注し、翌年、「天使たちによる神の御名の礼賛」(La adoración del Nombre de Dios)を完成。

バイユーもやっとゴヤの才能を認め、1773年、バイユーの妹ホセファ(Josefa Bayeu y Subías)と結婚します。

同じころ、サラゴサ北西にあるアウラ・デイ修道院(Cartuja Aula Dei)では、聖母マリアの生涯をテーマにした壁画を油絵で描きました。(11点の内7点が、オリジナルのまま今も残されています)

その後、バイユーの口利きで、1775年から、マドリードにある王立タピスリー工房(Real Fábrica de Tapices)でタピスリーの原画(cartón,カルトン)を描く仕事を得て、17年間で約63点のカルトンを制作しました。

カルトンの代表作は、男性が女性に緑色のパラソルを差し掛ける「日傘」(El Quitasol)や毛布の上でトランポリンのように飛び跳ねる人形を描いた「藁人形」(El Pelele)などです。

1781年には、バイユー経由で再びサラゴサのエル・ピラール大聖堂の天井画の仕事を受けますが、バイユーが裏から手を回し、描き直しを命じたため、嫌々ながらも修正します。

同じ年、国王カルロス3世(Carlos III)の命令で、マドリードにあるサン・フランシスコ・エル・グランデ教会(San Francisco El Grande)の祭壇画を完成したことで、面目躍如。

1784年には、待望の子ども、フランシスコ・ハビエル(Francisco Javier)が生まれます。ゴヤ夫婦は多くの子どもを授かりましたが、成長したのはフランシスコ・ハビエルただ一人です。

1785年、オスーナ公爵(Los duques de Osuna)家がパトロンになり、以後30年に渡って、付き合うことに。

1789年、ゴヤは念願の宮廷画家に選ばれました。

ゴヤの後半生~人間の本質をあぶりだす問題作を次々発表~

ゴヤの代表作は、大病を患い耳が聞こえなくなった1792~1793年以降に集中しています。

1797年には、パトロンかつ愛人でもあったという説もあるアルバ公爵夫人を描いた「黒衣の女アルバ女公爵」(The Duchess of Alba)を発表。

黒いマンティーリャ(Mantilla,頭と肩を覆うスカーフ)をかぶったアルバ公爵夫人が指さす地面の砂には、「Solo Goya」(ゴヤだけ)という文字が描かれています。

1798年には、国王カルロス4世(Carlos IV)から依頼されたマドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂(Ermita de San Antonio de la Florida)の天井画を4ヶ月間で完成させました。

1799年、版画集「ロス・カプリチョス」(Los Caprichos,「きまぐれ」という意味)を自宅近くの香水屋さんで販売しますが、内容が過激すぎたため、発売されてすぐに発禁に。王室関係の絵画を描きながら、社会を風刺するダブルスタンダードな姿勢は、この後も続いていきます。

同じ年、宮廷の首席画家に昇進しました。

1800年には、ゴヤ作品で最も有名な肖像画といっても過言ではない「裸のマハ」(La Maja desnuda)を発表。

スコルニワイン  ゴヤ

(引用元:Wikipedia

「マハ」(Maja)とは「伊達女」や「小粋な女」を意味するスペイン語です。

スペインで裸体画が描かれることは少なく、ゴヤはこの作品の発表後、異端審問にかけられました。

この絵のモデルはアルバ公爵夫人という説もありますが、首相ゴドイ(Manuel Godoy y Álvarez de Faria)の愛人だったペピータ・ツドォ(Pepita Tudó)を描いたという説が有力です。首が描かれていない不自然さから、後で顔の部分だけペピータの顔に修正したともいわれています。

1800~1801年には、国王カルロス4世(Carlos IV)と王妃マリア・ルイーサ(María Luisa de Borbón-Parma)一家の背後にひっそりとたたずむゴヤが描かれた、「カルロス4世の家族」(La familia de Carlos IV)を発表。

スコルニワイン  ゴヤ

(引用元:Wikipedia

この絵は、国王カルロス4世と王妃マリア・ルイーサの間に、まだ幼いドン・フランシスコ・デ・パウラ(Francisco de Paula)が立っていて、真ん中に空間が空いていることから、フランシスコの実の父親といわれるゴドイを推測させる作品になっています。

ゴドイは、王妃マリア・ルイーサやペピータ・ツドォと関係を持つ一方、王室と姻戚関係を持つため、チンチョン女伯爵(María Teresa de Borbón y Vallabriga)と政略結婚しました。

また、この絵では、カルロス4世よりも息子のフェルナンド7世(Fernando VII)が魅力的に描かれているため、今後を予言して描かれた作品ともいわれています。

1807年、父カルロス4世や母マリア・ルイーサ、ゴドイの様子に我慢ならないフェルナンド7世は、ナポレオン(Napoléon Bonaparte)に父やゴドイを追い払うよう手紙を出します。

1808年、3名がフランスに亡命したことでいったんは王位に就いたフェルナンド7世でしたが、ナポレオンはフェルナンド7世をフランスのバイヨンヌ(Bayonne)で幽閉し、すぐに実の兄ジョゼフ(Joseph Bonaparte)をホセ1世として王位に就かせました。

再びフェルナンド7世が王位に就いた1814年に描かれた「1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘(El 2 de mayo de 1808)、「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」(El 3 de mayo en Madrid o “Los fusilamientos”)は、フェルナンド7世がいなくなった後、フランス軍に武装蜂起した市民たちとフランス軍に翌日銃殺された市民たちを描いた作品です。

スコルニワイン  ゴヤ

(引用元:Artpedia

1810年には版画集「戦争の惨禍」(Los Desastres de la Guerra)を発表しますが、ホセ1世に仕えていたため、当時は大っぴらにフランス軍を批判する作品を描くことができなかったのでしょう。

ちなみに、「囚人」(Los prisioneros)という3枚のエッチング作品のうち、一番小さな作品は「小さな囚人」(Pequeño prisionero)と呼ばれ、このエッチングをエチケットにしたワイン・ザ・プリズナー(The Prisoner)が、ナパバレー(Napa Valley)のワイナリーから販売されています。

1812年に妻ホセファが亡くなった後、ゴヤは息子フランシスコ・ハビエルの妻の遠縁にあたるレオカディア・ヴェイス(Leocadia Weiss)を家政婦とし、一緒に暮らし始めます。

レオカディアの3番目の子ロサリオ(Rosario)は、ゴヤの子だったという説もあります。

1819年には、マドリード郊外の「聾者の家」(Quinta del Sordo)を購入し、黒い絵のシリーズを壁に描いたゴヤ。

鬼気迫る表情でありながら、どこか物悲しい「わが子を食らうサトゥルヌス」(Saturno devorando a su hijo)は、黒い絵シリーズの代表作です。

スコルニワイン  ゴヤ

(引用元:Wikipedia

1823年、ゴヤは、孫(フランシスコ・ハビエルの子)マリアーノ(Mariano)に「聾者の家」を譲ります。

1824年、フェルナンド7世に疎まれていたゴヤは、フランス・ボルドー(Bordeaux)に亡命。レオカディアと合流します。

亡命後もしばらくは休暇中と偽り、正式に宮廷の仕事を辞したのは、1826年のことでした。

「聾者の家」では、住み込みの庭師を雇い、新たにぶどう園を造っていたゴヤ。

ワインの産地であるボルドーにも、スペインからぶどうの苗木を持ち込んだそうです。

亡命後も精力的に活動していたゴヤでしたが、1827年に描かれた「ボルドーのミルク売り娘」(La lechera de Burdeos)が遺作になります。

翌年、ボルドーで亡くなりましたが、現在は、かつて天井画を描いたマドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂に埋葬されています。 

スペインでゴヤの作品が見られる主なスポット

スペインでゴヤ作品を見るならば、1,000点以上の作品を所蔵している、マドリードのプラド美術館(Museo Nacional del Prado)ははずせません。

プラド美術館で見逃せない作品は、

「裸のマハ」

「裸のマハ」と同ポーズで描かれた「着衣のマハ」(La maja vestida)

「わが子を食らうサトゥルヌス」

「カルロス4世の家族」

「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」

など。

ゴヤの代表作が、ほぼ網羅されています。

ゴヤの銅像も北側入口前に建っているので、記念に立ち寄ってみるのも良いかもしれません。

王立サン・フェルナンド美術アカデミー(Real Academia de Bellas Artes de San Fernando)は、

「平和大公ゴドイ像」(Manuel Godoy, príncipe de la paz)

「鰯の埋葬」(El Entierro de la Sardina)

1815年に描かれた「自画像」(Autorretrato)

など、13点の名作を所蔵しています。

ゴヤのお墓があるサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂では、天井画もお見逃しなく。

サラゴサの見どころとしては、

ゴヤ作の2つの天井画が見られるエル・ピラール大聖堂

「ピラールの聖母」(La Vilgen del Pilar)

「アルプスを横断するハンニバル」(Aníbal cruzando los Alpes)

など、サラゴサ時代の作品を鑑賞できるサラゴサ博物館(Museo de Zaragoza)

があります。

ゴヤの生まれ故郷フエンデトードスには、

 ゴヤの生家(Casa Natal de Goya)

ゴヤ版画美術館(Museo del Grabado de Goya)

があるので、サラゴサとセットで訪れてみてはいかがですか。

アニス酒で知られるチンチョン(Chinchón)は、ゴヤが描いた「チンチョン伯爵夫人」(La condesa de Chinchón)で有名になりました。

ゴヤの弟カミロ(Camilo)は、チンチョンにある聖母被昇天教会(Iglesia Nuestra Señora de la Asunción)の司祭だったため、主祭壇には、1812年にゴヤが描いた「聖母被昇天」(Asunción de la Virgen)が飾られています。

町の中心には、バルコニー付きの建物に囲まれたマヨール広場があるので、絵を鑑賞した後に、建物の1階にあるバルをはしごすることもできますよ。

日本でゴヤの作品が見られる主なスポット

日本で、ゴヤの油絵が見られるのは、

「アルベルト・フォラステールの肖像」を所蔵する三重県立美術館

「ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル」を所蔵する東京富士美術館

の2館です。

ゴヤの版画作品を見られる美術館は複数ありますが、

スペイン特命全権公使をつとめ、スペインを中心とした絵画のコレクターとして知られる須磨弥吉郎のコレクションを所蔵する長崎県美術館

が特におすすめです。

大塚国際美術館では、陶板で再現された「黒い絵」シリーズを見ることができますよ。

まとめ

様々な出来事を体験しながらも、それを肥やしとして、晩年まで作品作りに力を注いだゴヤ。

情熱家でありながら、絵を描く時には冷静、という二面性を持っていたからこそ、絵のモデルが持つ本質をあぶりだすような作品が描けたのだと思います。

晩年になるほど凄みが感じられる作品が増えてくるため、ちょっと見るのを躊躇してしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、画面からあふれる迫力を感じに、ゴヤの作品が展示されている美術館を訪れてみるのも良いかもしれません。

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