ジョアン・ミロは、同じくスペイン出身のピカソやダリと比べると地味な印象があるかもしれませんが、その作品群(特に後期の作品)は、1度見たら忘れられないインパクトがあります。
この文章では、ジョアン・ミロとはどういう人だったのか、ジョアン・ミロの作品が見られる場所、ジョアン・ミロとワインとの関わりなどをご紹介していきたいと思います。
ジョアン・ミロとは?
ジョアン・ミロは、1893年、バルセロナ(Barcelona)の旧市街、サン・ジャウマ広場(Plaça de Sant Jaume)のすぐ近くにあるクレディト小路(Pasaje de Credito)で生まれました。
ジョアン・ミロの本名は、ジョアン・ミロ・イ・フェラ(Joan Miró i Ferrà)で、父は、時計と金銀細工の職人、2人の祖父も共に職人でした。
クレディト小路の壁には、生誕碑が今も残されています。
ジョアン・ミロの父方の祖父母は、バルセロナの西約150kmの場所にある、プリオラート郡(Priorat)コルヌデッラ(Cornudella de Montsant )に住み、母方の祖父母はバレアレス諸島(Illes Balears)にあるマヨルカ島(Mallorca)に住んでいたので、都会育ちでありながら、少年時代のジョアン・ミロは自然に触れる機会が多かったようです。
プリオラートといえば、原産地呼称DOCaを取得したことで知られていますが、コルヌデッラはプリオラートでなく、D.Oモンサン(Montsant)の地域に属しています。
コルヌデッラには、1922年に、ガウディ(Antoni Gaudí)の弟子であるセサール・マルティネル(Cèsar Martinell i Brunet)が完成させたコルヌデッラ協同組合(Celler Cooperatiu Cornudella de Montsant)のボデガがあり、2013年から一般開放されるようになりました。
マルティネルは、コルヌデッラ以外にも、農業協同組合のボデガを約40ヶ所手掛けていて、それらの建物は別名「ワインの大聖堂」(Catedral del Vi)と呼ばれています。
さて、子どものころから絵を描くのが好きだったジョアン・ミロですが、父からは画家になることを反対されていました。
そのため、昼は商業学校に通い、夜はラ・ロンハ美術学校(Escola Llotja)に通うことになります。
商業学校を卒業後、会計士として働いていたジョアン・ミロですが、大病を患ったことで、父を説得することができ、再び画家を目指すことになりました。
1912年に入学したガリ美術学校(Francesc Galí’s Escola d’Art)では、後に陶芸家になるジュゼップ・リュレンス・アルティガス(Josep Llorens Artigas)との出会いがありました。
大病の静養をする際にも利用した、バルセロナの西約140km・モンロッチ(Mont-roig del Camp)にあるミロ家の農園で、ジョアン・ミロはたびたび風景画を描き、1919年には「モンロッチのブドウ畑とオリーブの木」(Vinyes i oliveres)という作品を完成させました。
モンロッチは、カタルーニャ語で「赤い山」という意味です。
同じ1919年、パリに向かったジョアン・ミロは、ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)のもとを訪れます。ピカソとジョアン・ミロは母親同士の仲が良い、というつながりがありました。
翌年からは、夏はモンロッチ、冬はパリに住む生活が始まります。
パリで、シュールレアリスム(Surréalisme)の画家であるアンドレ・マッソン(André-Aimé-René Masson)の隣の部屋に住んだことをきっかけに、ジョアン・ミロは、1919~1924年にかけて、写実主義の作風を残しつつ、オートマティスム(Automatisme)を取り入れるなど、様々な表現方法に取り組んでいきます。
1921~1922年にかけて描かれた、写実主義時代の代表作「農園」(The Farm)は、作家のヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)が購入しました。ヘミングウェイは、パリでジョアン・ミロと同じボクシング・ジムに通っていて、対戦したこともあったようです。
「自動書記」とも呼ばれるオートマティスムは、自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう、トランス状態で作品を作り出す方法で、シュールレアリストによって生み出されました。
空腹状態で見た幻覚をもとに、1924~1925年に描かれた「アルルカンのカーニヴァル」(Carnaval d'Arlequin)は、オートマティスムの代表的な作品といえるでしょう。
ジョアン・ミロはシュールレアリスムのグループに参加していましたが、集まりなどには参加せず、独自の道を貫きます。
パリでの極貧生活の時代からスーツに身を包み、外見は実直なサラリーマンのようでしたが、アトリエでは激しい人に変貌し、ブルジョアや権力を持っている人にもおもねらないジョアン・ミロ。
スペイン内戦を行ったスペイン政府に反対していた彼は、1937年、妻や子と共にパリに亡命し、パリ万博でカタルーニャの農夫たちが反抗する姿を描いた「刈り入れ人」(Le Faucheur)を発表します。また、「スペインを救え」(Aidez L'Espagne)というポスターも制作し、会場で販売しました。
1939年、第二次世界大戦が近づいたため、ノルマンディー地方(Normandie)に避難したジョアン・ミロは、翌年に「星座」(Constellations)シリーズの制作を開始。
ノルマンディー地方も安全でないとわかり、アメリカ行きの船に乗ろうとしましたが、満席だったため、逮捕される危険性を感じつつ、妻の実家があるマヨルカ島へと戻り、23枚の連作を1941年に完成させました。
スペイン政府に反対する活動を行ったジョアン・ミロは、1968年まで、スペイン国内で公式な展覧会を開くことができなかったそうです。
アメリカで「星座」シリーズを販売したのは、アンリ・マティス(Henri Matisse)の息子で画商の、ピエール・マティス(Pierre Matisse)でした。
1942年にバルセロナへ戻ったジョアン・ミロは、フランコ(Francisco Franco Bahamonde)政権を批判するようなリトグラフ(lithograph)作品「バルセロナ」シリーズを発表。
1944年、友人でアート・プロモーター(Art Promotor)のジョアン・プラッツ(Joan Prats)が、この作品を出版しました。
同じく1944年ころから、女性・鳥・星などをテーマに、原色(赤・黄・青・緑・黄・黒)を用い、対象をデフォルメした作品を次々に発表。
1953年からは、カタルーニャ州ガリファ(Gallifa)にあるアルティガスのスタジオで、パブリックアートの制作を開始しました。
1954年のヴェネツィア・ビエンナーレ(Biennale di Venezia)で版画部門の大賞を受賞。
1959年には、パリにあるユネスコ(UNESCO)本部の陶壁画「太陽の壁」(Mur du soleil) 、「月の壁」(Mur de la lune)で、アルティガスと共にグッゲンハイム財団国際大賞(Guggenheim International Award)を受賞します。
1960年以降はアクション・ペインティング(Action painting)に力を入れ、1974年には、カンバスを燃やしながら、その周囲に色を塗る、「焼けたカンバス」(Tela quemada)という作品群も生み出しました。
聖ヨハネ(Sant Joan)の日(6月24日)の前日に行われる聖ヨハネの火祭りを、ジョアン・ミロは子どものころ、欠かさず見に行っていたそうです。その祭りからヒントを得て、これらの作品が生まれました。
同じく1974年には、FCバルセロナ(FC Barcelona)の75周年を記念したポスターを作製。
1983年に、マヨルカ島で90歳の生涯を閉じました。
1937年に瀧口修造氏がジョアン・ミロに関する本を初めて出したこともあり、日本びいきだったジョアン・ミロ。
大阪万博の際に制作された陶板壁画「無垢の笑い」は、現在も国立国際美術館で見ることができます。
スペインでジョアン・ミロの作品が見られる場所
これまでジョアン・ミロについてご紹介してきましたが、次にスペインで彼の作品が見られる場所をご紹介します。
1.バルセロナ
・ミロ美術館(Fundació Joan Miró)
モンジュイック(Montjuïc)の丘の上に建つ、ジョアン・ミロが寄贈した作品を中心に、14,000点以上のコレクションを所蔵する個人美術館です。
美術学校時代の友人で、建築家のジュゼップ・リュイス・セルト(Josep Lluís Sert i López)が無償で設計し、1975年にオープンしました。セルトは、パリ万博のスペイン館を手掛けたことでも知られています。
初期の代表作「モンロッチの教会と村」(Mont-roig, l'església i el poble)や「星座」シリーズの「朝の星」(L'estel matinal)、「太陽の前の人物」(Personnage devant le soleil)などの絵画、パリのラ・デファンス(La Défense)に設置されたパブリックアートの模型(Parella d'enamorats dels jocs de flors d'ametller. Maqueta del conjunt escultòric de La Défense, París)などが、この美術館の見どころです。
バルセロナでは他に、
地下鉄3号線リセウ(Liceu)駅前のランブラス通り(La Rambla)にある路上モザイク
「女と鳥」(Dona i ocell)という、高さ22mのパブリックアートがあるジョアン・ミロ公園(Parc de Joan Miro)
バルセロナ・エル・プラット空港(Aeropuerto de Barcelona-El Prat)第2ターミナルの壁画
日曜日に限り開放される、バルセロナ市役所(Ajuntament o Casa de la Ciutat)内のアート作品
なども見ることができます。
また、バルセロナ現代美術館(MACBA)でも、ジョアン・ミロの作品を所蔵しているので、展示のタイミングが合えば、作品を見ることが可能です。
ジョアン・ミロの定宿だったホテルコロン(Hotel Colón)では、目の前のカテドラル(La Catedral de la Santa Creu i Santa Eulàlia)を眺めながら、テラスでお酒を飲むこともできますよ。
ジョアン・ミロの生誕地であるクレディト小路を訪れるならば、生産者がわずか8ヶ所のみの、D.Oアレーリャ(Alella)産のワインも飲めるタパス・サン・ミゲル(Tapas San Miguel)に立ち寄ってみてはいかがですか。
ボアダス・カクテルズ(Boadas Cocktails)は、ジョアン・ミロが頻繁に通っていた、バルセロナで最も古いカクテル・バーです。
創業者が、キューバの有名バー「エル フロリディータ」(El Floridita)を経営するいとこからカクテル技術を学んだため、上に持ち上げたタンブラーから低い位置のタンブラーにカクテルを注いで空気を含ませるスローイング(Throwing)の技術は超一流です。
300種類以上あるスペシャルドリンクの中から、どれにしようか迷ってしまう時は、「今日のカクテル」(Cocktail del Dia)を選んでみると良いかもしれません。
日替わりのカヴァ(Cava)もあるので、カクテルが苦手な方も安心です。
2.マヨルカ島
ジョアン・ミロは、マヨルカ島のカラマホール(Cala Major)地区に1956年から亡くなる1983年まで住んで、作品作りも行っていました。
・ピラール・イ・ジョアン・ミロ財団美術館(Fundació Pilar i Joan Miró a Mallorca)
ピラール・イ・ジョアン・ミロ財団美術館は、ジョアン・ミロの奥さん(ピラール・ジュンコサ, Pilar Juncosa)が土地を提供し、ラファエル・モネオ(José Rafael Moneo Vallés)が設計した美術館です。
1960年代の作品を中心に、1908~1981年までに制作された作品が展示されています。
1962年に制作された、ジョアン・ミロ公園の「女性と鳥」(Femme et oiseau)の模型は必見です。
シンシナティ(Cincinnati)のホテルのためにジョアン・ミロが制作した壁画のスケッチをもとに、アルティガスの息子(Joan Gardy Artigas)が作成した、カフェスペースのセラミック壁画もお見逃しなく。
ソン・ボテール(Son Boter)は、18世紀初めの領主館で、ジョアン・ミロがグッゲンハイム財団国際大賞の賞金で購入した、マヨルカ島の2つ目の絵画用アトリエです。
壁に描かれた落書き風のスケッチや描きかけの絵などから、ジョアン・ミロの制作風景を垣間見ることができる他、空のワインボトルが置かれた台所のようなスペースなど、インテリアの参考になりそうな、センスのあるスペースも見学できます。
セルトが設計した第1アトリエ(Taller Sert)内には、原色で描かれた絵が無造作(のよう)に置かれ、見ていると楽しい気分になってきます。
第1アトリエでは、海外の置物など、ジョアン・ミロの私物も見ることができますよ。
カラマホール地区はパルマ(Palma)から車で15分ほどの距離にあるので、美術館のそばにあるホテル・ジョアン・ミロ(Hotel Joan Miró)に宿泊して、1日たっぷりジョアン・ミロの世界に浸ってみるのも良いかもしれません。
ジョアン・ミロ作品が飾られたお部屋で一息入れた後は、プールサイドでカクテルはいかがですか。
このホテルに宿泊すれば、美術館に無料で入場することもできますよ。
パルマに立ち寄るならば、ワインセラーを改装したレストラン・セリェール・サ・プレンサ(Celler Sa Premsa)やワイン樽をテーブル代わりに利用するラ・ボベダ(La Boveda)などのお店で食事するのも良いでしょう。
3.モンロッチ
モンロッチにあるマス・ミロ(Mas Miró)は、別荘(農家)、庭、アトリエ、鶏小屋、農園、教会、元農場の離れから構成されています。アトリエでは、ジョアン・ミロの私物や壁の落書きなども見ることができますよ。
高速鉄道が計画されたため、一時は取り壊しも検討されたそうですが、反対運動によって、高速鉄道のルートが変更されたので、そのまま保存されることになりました。
孫のダビッド(David Fernandez Miró)の話によると、マヨルカ島に住んでいたジョアン・ミロは、夏の間(6月24日の聖ヨハネの日からモンロッチの祝日である9月30日まで)モンロッチに滞在し、海に泳ぎに行ったり、ハイキングに行って、彫刻の材料になりそうなものを拾ったり、精力的に過ごしていたようです。
ダビッドは、小作人にポロン(Porron,カタルーニャならではの水差し)でワインを飲む方法を教えてもらったり、ぶどうを収穫する方法を習ったり、ラバが引く荷車に乗って、収穫したぶどうを協同組合に運んだりしたそうです。
ポロンを高い位置に持ち上げ、口をつけずにワインを飲む方法は、慣れないと、洋服をびしょ濡れにする危険性もありますが、口をつけないので、みんなで回し飲みができる利点もあります。
4.マドリード(Madrid)
スペイン政府と長い間対立していたジョアン・ミロですが、マドリードにも
「ヤシの木のある家」(La casa de la palmera)などの作品を所蔵するソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía)
65点のジョアン・ミロコレクションを所蔵するエスパシオ・ミロ(Espacio Miró)
サンティアゴ ベルナベウ駅(Santiago Bernabéu)近くのジョアン・ミロ広場(Plaza Joan Miró)から見える場所に設置された壁画
などのアートスポットがあります。
他に、
スペイン貯蓄銀行の最大手であるラ・カイシャ(La Caixa)のマーク
スペイン政府観光局(Turespaña)のマーク
なども、ジョアン・ミロの作品として知られています。
まとめ
これまで、ジョアン・ミロの作品や人生について、ご紹介してきました。
モンロッチで、農園をテーマにした作品をいくつも描いてきたジョアン・ミロ。
農園を訪れることで、農夫のように来る日も来る日も畑(作品)と向かい合うことの大切さを学んだのではないでしょうか。
派手なエピソードはありませんが、作品を見ることで、ジョアン・ミロの熱いパッションを、きっと感じることができるはずです。
スペインを訪れる機会がありましたら、ぜひ、ジョアン・ミロの作品を見てみてください。