スペインの中の異国で美食の地・バスク州とは スペインの中の異国で美食の地・バスク州とは

スペインの中の異国で美食の地・バスク州とは

スペインの中の異国と呼ばれ、世界的な美食の地でもあるバスク州の文化と食についてその歴史を振り返りながら説明します。

バスク州とは

バスク州(País Vasco)はスペイン北部にある州で、ピレネー山脈(Los Pirineos)西側に位置し、北側は大西洋のビスカヤ湾(Golfo de Vizcaya)に面しています。アラバ県(Provincia de Álava)、ビスカヤ県(Provincia de Vizcaya)、ギプスコア県( Provincia de Guipúzcoa)の3県で構成されています。バスク州には公式の州都はなく、議会や州政府本部があるのはアラバ県のビトリア=ガステイス(Vitoria-Gasteiz)で、最も人口が多い都市はビスカヤ県のビルバオ(Bilbao)です。

バスク州の沿岸部は西岸海洋性気候で1日中湿度が高く、過ごしやすい気温で、中央部のアラバ盆地は大陸性気候と北部の海洋性気候の混じり合った乾燥して暖かい夏季と降雪のある寒い冬季のある気候です。南部は純粋な大陸性気候で、冬季は寒く乾燥し、夏季は非常に温暖で乾燥しています。


バスク州の歴史

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バスク州はバスク人が住む文化的・歴史的領域であるバスク地方と混同されがちですがバスク州はあくまでもスペインの行政区分です。バスク人とはフランス南西部とスペイン北東部にまたがるバスク 地方に古くから暮らしてきた民族で、現在バスク州に約210万人、ナバラ州(Comunidad Foral de Navarra)に約60万人、フランス領バスク(イパラルデア/Iparraldea)には約30万人が住んでいます。 

バスク人は、自らをエウスカル・エリア(Euskal Herria )と呼び、独自の言語を持っていて、エウスカルとはバスク語を意味します。バスク語はフランス語やスペイン語、そして他のどんな言語とも全く異なる言語で、そのルーツもはっきりしたことがわかっていません。

近年の研究ではバスク人は新石器時代の農耕民の子孫だと言われています。西ピレネー山脈から海岸線にかけての厳しい地形に暮らしていたことからヨーロッパの他の民族集団から遺伝的に孤立したのです。紀元前196年にローマ人がこの地域に侵入した際にもバスク人はすでに現在のスペイン北部に暮していましたがローマにもその後やってきた勢力にも征服されることはありませんでした。

824年頃、西ピレネー山脈の南部やビスカヤ湾周辺にバスク 人が多数を占めるナバラ王国( Reino de Navarra)が興り、その後代々の君主がこの地域を納めました。

1512年にナバラ王国の大部分がカスティーリャ王国(Reino de Castilla)の支配下に入り、現在のスペインとなる領域に組み込まれます。バスク 人はスペイン帝国の植民活動で活躍し、フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)の後を継いで世界一周したフアン・セバスティアン・エルカーノ(Juan Sebastián Elcano)やイエズス会のフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)もバスク人でした。バスク 地方には王立造船所があり、カスティーリャ王に献上される船が造られていました。また、ビルバオはカスティーリャ王国の羊毛の積み出し港であり、16世紀前半には海事領事所が設置されました。

17世紀にカスティーリャ王国は衰退しますがビルバオでは造船業や海運業が盛んとなり、ビスカヤとギプスコアではヨーロッパへ輸出する武器製造業が発展しました。フランス・スペイン戦争の終戦条約である1659年のピレネー条約ではバスク 地方は北バスク と南バスクに分断されます。18世紀初頭のスペイン継承戦争ではバスク 地方はブルボン家に味方したため、戦争後にスペイン各地の地方特権であるフエロ(Fuero)が撤廃される中バスクでは存続が認められました。

18世紀後半は産業革命後のイギリスに遅れをとってバスク地方の製鉄業は遅れをとりますが、それまで蓄えた資本力が経済復興に役立ちました。

19世紀のスペインでは中央集権化と均一化が進み、バスク側にとってはその権利と独自性が脅かされる事態となります。スペインの王位継承問題に端を発した3度に及ぶカルリスタ戦争(Guerras Carlistas)で自由主義勢力と戦い敗れたスペイン・バスクのフエロは実質的に撤廃され、バスク 地方はスペイン国家の一地方とされ、納税や兵役の義務が課せられました。

1900年の時点ではアラバ・ビスカヤ・ギプスコアのバスク 3県の人口の6割は他地域の出身者となり、バスク 人の伝統的規範や価値観が脅かされることとなります。「バスク民族主義の父」と呼ばれるサビノ・アラナ(Sabino Arana Goiri)はカタルーニャ・ナショナリズムに共感し、ビスカヤ地方の精神的独立を求めて1893年に政治活動を開始。アラナはアラバ・ビスカヤ・ギプスコアとナバラ、そしてフランス領バスク3県が1つにまとまった国を提起し、1895年には『バスク民族主義党(PNV)』が結党されました。

1931年にスペインに第二共和政が成立するとバスク民族主義党はバスク3県とナバラ県を独立国家として扱うバスク自治憲章案を採択して国会に提出するも廃案となり、1933年には修正版のバスク自治憲章がバスク3県の住民投票によって承認されます。これにより、バスク3県が初めてまとまって法制化されました。

1936年にはバスク自治憲章の交付が認められ、ホセ・アントニオ・アギーレ(José Antonio Aguirre y Lecube)を初代政府首班としてバスク自治政府が承認されます。

1930代後半のスペイン内戦ではビスカヤ県とギプスコア県とバスク民族主義党は共和国側に立ちましたが、アラバ県とナバラ県はフランコ将軍の反乱軍に味方しました。ナバラ王国の流れをくむナバラ県はバスクの中心的存在でしたがバスク3県への併合を拒み、バスク 3県からは分離します。1937年4月、バスク自治の象徴であるゲルニカ(Gernika-Lumo)が反乱軍と組んだドイツ軍によって爆撃を受け、同年6月にはバスク軍最後の砦だったビルバオが陥落します。

スペイン内戦では15万人以上のバスク 人が難民となり、その後のフランコ政権下ではバスク語の使用やバスク国旗の掲揚が禁止され、アギーレはニューヨークでバスク亡命政府を編成しました。1959年、地下組織EKINを元にして『バスク祖国と自由(Euskadi Ta Askatasuna

・ETA)』が発足、バスク語の擁立やバスク大学の創設などを訴えました。ETAはやがて政治的独立を目指す集団が主流派となり、1968年には武力闘争が開始され世界的に知られるようになりました。


1960年代末にはスペイン全土でフランコへの反体制運動が高まり、70年代になると一時はETAの台頭により一線を退いていたバスク 民族主義党が保守派の支持を得て組織を拡大します。フランコ将軍が死去し、1978年にスペイン 1978年憲法が制定されましたが憲法にはバスク 人は民族を構成するに至らない民族体と位置付けられます。しかし1979年にバスク自治憲章が国会で承認され、アラバ・ビスカヤ・ギプスコアの歴史的3領域の自治組織としてのバスク自治州が発足しました。


バスク州の文化

ここからはバスク州の文化を代表する街や建築物などを紹介します。

世界屈指の美食の街、サン・セバスティアン

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サン・セバスティアン(San Sebastián)はギプスコア県の県都で、ビスカヤ湾に接したフランス国境から約20kmに位置した都市です。バスク語ではドノスティア(Donostia)と呼ばれます。ポーランドのヴロツワフ(Wrocław)とともに1年間にわたり集中的に各種の文化行事を実施する事業、『欧州文化首都( European Capital of Culture)』に2016年に選定されています。

世界屈指の美食の街として有名で、ミシュランで星を獲得しているレストランや食のアカデミー賞と呼ばれる「世界のベストレストラン」に選ばれた名店が密集しています。スペインのタパス(Tapas)で知られるピンチョス(Pintxos)はサン・セバスティアンのバルで生まれたとされています。バルでタパスをはしごして楽しむ『チキテオ(Tikiteo)』はスペイン全土で見られる習慣ですが、サン・セバスティアンはチキテオのメッカとも言えるほど盛んです。

バスク 地方には男性が料理を楽しむ習慣があり、会員の紹介がないと入れない共同の調理施設兼食堂『美食倶楽部(ソシエダ、Sociedad)』が100年以上前から存在します。サン・セバスティアンはその発祥地と言われ100以上のソシエダがあり、友人や家族を招いて交流する場として市民に欠かせない存在となっています。

ビルバオ・グッゲンハイム美術館

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ビルバオ・グッゲンハイム美術館(Museo Guggenheim Bilbao)は1997年ビルバオに開設した近現代美術が専門の美術館です。1980年代以降の30年間で最も重要な建築物のひとつとして数えられることの多い建築物で、カナダ出身の建築家・フランク・ゲーリー(Frank Owen Gehry)が設計を担当しました。

ビルバオは公害やテロによって人口減少が進み、1983年には大洪水が起こったのをきっかけに工業の街からサービス業へと方向転換を図ります。そしてビルバオで15億ドルを投資した再開発が始まり、その後数年でスペイン有数の都市へと変貌を遂げたのです。

1991年、バスク州政府はアメリカのソロモン・R・グッゲンハイム財団に対して荒廃した港湾地区に美術館を建設することを提案しました。グッゲンハイム美術館の完成でビルバオへの観光客はそれまでの約3倍、1年間に約100万人訪れるまでに増加しました。

マルケス・デ・リスカル

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ビルバオから南東、アラバ県エルシエゴ(Elciego)の農業地帯に突然現れるキラキラと光る不思議な建築物が5つ星ホテルのマルケス・デ・リスカル(Marques de Riscal hotela)です。マルケス・デ・リスカルの設計もフランク・ゲーリーが手掛けていて、「今にも崩れ落ちてくるのでは?」と思うようなバランスでオブジェが組み合わされた斬新なデザインのホテル周辺にはぶどう畑があり、夏には葉の緑を、秋には葉が黄色に色づいた美しい眺めを楽しむことができます。

ホテル内には4つのレストランがあり、マルケス・デ・リスカル社のワインとともに絶品の料理を楽しむことができます。

マルケス・デ・リスカル社は1858年にリスカル侯爵によって設立された名門ワイナリー で、王室をはじめ、サルバドール・ダリ(Salvador Dalí)がこよなく愛したことでも有名です。


バスク織り

バスク織りはバスク地方に伝わる伝統的な織物です。厚みのある亜麻の生地に菱形の柄がかつての主流でしたが、ここ数百年でいろいろなデザインのものが生まれました。現在代表的な柄はバスクの7つの地方を表す7本のラインもので、ストライプは海の波を表現しているのだそうです。

虫や暑さを防ぐために牛にかけていたのが始まりとされ、婚礼などの特別な日にも使用されていました。今日では日用品としても利用され、バスク地方の代表的な名産品として有名です。かつてパブロ・ピカソが愛用していたことでも知られています。

バスク州の食

食をその文化の中心に据えているバスク地方には美味しい食べ物が豊富です。その中からいくつかバスク 州を代表するものを紹介します。

バスクの羊乳チーズ『イディアサバルチーズ』

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イディアサバルチーズ(Queso Idiazabal)はバスク地方で作られる羊の乳を原料としたセミハードタイプのチーズです。3ヶ月ほどの熟成期間を必要とし、凝固剤には子羊の胃袋の塩漬けを使うのが特徴で、味は若干の苦味と酸味があります。日本で流通しているものはスモークしたものがほとんどですが、現地ではスモークしていないものが主流です。

バスク 地方の広範囲で作られているためDO認定の際には議論になりましたが、ギプスコア県のイディアサバル村の名前が名称として使われることとなりました。イディアサバルチーズはヨーロッパの食の遺産に登録されています。

バスク?『チーズケーキ』

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日本で大人気のバスクチーズケーキはサン・セバスティアンのバル『ラ・ビーニャ(La Vina)』のものを参考にして作られています。サン・セバスティアンにはラ・ビーニャの他にもチーズケーキの名店があり、その1つが『パステレリア・オタエギ(Pasteleria Otaegui)です。オタエギはスペイン王室御用達のスイーツ専門店で、1886年創業の老舗です。オタエギのチーズケーキはクリーミーなラ・ビーニャのものに比べると、より軽い口溶けが特徴です。

ちなみに、『バスクチーズケーキ』は日本で作られた呼称です。サン・セバスティアンの郷土菓子として知られているのはオタエギが20世紀初頭に売り出したカスタードクリームパイ『パンチネータ(Pantxineta)』です。

スペインとポルトガルから追放されたユダヤ人が住み着いたバスク 地方はユダヤ文化特有のお菓子やペストリー作りの文化を受け継いでいるため、美味しいスイーツが豊富にあります。

手違いがきっかけでバスクに浸透した『バカラオ』

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バカラオ(Bacalao)は干し塩鱈のことです。バカラオがバスク料理に欠かせない食材になったのはある手違いがきっかけなのだそう。

それは19世紀のことでした。ビルバオのある1人の商人が北欧にバカラオを100匹発注したところ、100万匹送られてきてしまいました。本来であれば他の地方の商人に売れたのですが、ちょうどそのころカルリスタ戦争が始まってしまいます。保存食のバカラオは戦争中の貴重な食材としてその後バスク の食卓に徐々に浸透していった、と言われています。

バスクで有名なバカラオ料理に『バカラオ・アル・ピルピル(Bacalao al pil pil)』があります。バカラオのゼラチンとオリーブオイルを乳化させて作る料理で、ピルピルというのはソースが沸騰し始めるときの音から来ているそうです。この調理法はバカラオ以外にもメルルーサ(Merluccius)などの白身魚にも応用されています。  

バスク名物のスパークリングワイン『チャコリ』

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バスク 地方の名物チャコリ(Txakoli)は微発泡のワインです。酸味が強く塩を感じる硬質な味が特徴で、オンダラビ・スリ(Hondarrabi Zuri)という地ぶどうを用いた白ワインが主流ですがロゼや赤も少量ながら存在します。

チャコリは底の平たい専用のグラスに、高い位置から注ぐエスカンシア(escancia)というパフォーマンスをして注ぐことで知られます。エスカンシアには酸が強いチャコリに空気を含ませ、まろやかな口当たりにする目的があるそうです。しかし別の説では鮮度の落ちたチャコリが泡立って見えるようにエスカンシアする、とも言われ、開封したてのチャコリであればこぼれるリスクを冒してまで高いところから注ぐ必要はないのかもしれません。

リンゴのスパークリングワイン『シードラ』

スペインのシードラ(Sidra)の産地はアストゥリアス州(Principado de Asturias)とバスク州が知られていますが、バスクのシードラは砂糖やガスを加えずに造るため、酸味の強さと自然な発泡が特徴です。

サン・セバスティアンから10kmほどの小さな村、ギプスコア県アスティガラガ(Astigarraga)はシードラの産地として有名です。古くからリンゴの栽培が盛んなアスティガラガは現在でもリンゴ酒造業が残っている数少ない村の1つです。

シードラはバスク語ではサガルド(Sagardo)と呼ばれ、その醸造所はサガルドテギ(Sagardotegi)といいます。サガルドテギでは樽から注がれるシードラと一緒に食事を楽しむことができます。バスク名物のタラのオムレツやバスク風のボーンステーキ、チュレトン(Chuleton)などが定番の料理です。

まとめ

スペインの中でもかなり異色の存在であるバスク州には魅力的な食文化が発展しています。反骨精神と生真面目さに溢れたバスク人がこだわり抜いて作る美食に想いを馳せ、食卓にピンチョスを並べ、チャコリを傾ける、そんな楽しみ方も良いかもしれませんね。

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