スペイン第2の都市、バルセロナを州都とした、スペイン北東部のカタルーニャ州の文化と食について、その歴史もふまえつつ紹介します。
カタルーニャ州とは
カタルーニャ(Cataluña)州はスペイン北東部の地中海岸に位置し、北はピレネー山脈とフランス、西はサラゴサ(Zaragoza)州、北はバレンシア(Comunidat Valenciana)州に接しています。バルセロナ(Província de Barcelona)、ジローナ(Província de Girona)、タラゴナ(Província de Tarragona)、リェイダ(Província de Lleida)の4つの県からから構成されています。
古くから交通の要衝として栄え、独自の歴史と伝統、習慣や言語を持っていて、カタルーニャの人は「カタラン(Catalan、カタルーニャ人)」としての意識を強く持っています。
カタルーニャ州の歴史
カタルーニャ地方には紀元前5000年前から、先住民であるイベリア人が数多く住んでいたと言われています。紀元前8〜6世紀にはギリシャ人が交易を目的に住みつき、海岸沿いに都市国家であるアンプリアス(Ampurias)を建設しました。
紀元前3世紀にローマ人によって征服され、パルキノ(現バルセロナ)などの植民地が建設されます。その後ローマによる支配は5世紀まで続き、この時代のタラゴナはイベリア半島の1つの首都として大きく発展を遂げました。
ローマ帝国が滅亡した5世紀からは西ゴート王国が建設され、キリスト教化が進み、バルセロナは西ゴートの首都になります。
711年にイベリア半島に侵入してきたイスラム教徒によってカタルーニャはわずか数年で征服されます。リョブレガット(Llobregat)川以北の旧カタルーニャ地域はイスラム教徒による支配が100年も続かずその後フランク王国に編入されますが、リョブレガット川以南の新カタルーニャは12世紀半ばまでイスラム教の支配下に置かれました。
8世紀にフランク王国カール大帝はイスラム勢力に対する緩衝地帯としてフランスとの国境地帯であるピレネー山脈にスペイン辺境領を築き、ピレネー東南部はカタルーニャとなっていきます。
987年にはカタルーニャ君主国が誕生。封建制が定着し、キリスト教勢力と共にレコンキスタ(イスラム教徒からの国土回復運動)に関わっていきます。1137年にはアラゴン=カタルーニャ連合王国と呼ばれる同君連合が成立、この時初めて「カタルーニャ」という名称が文献に登場しました。
バルセロナ伯でアラゴン王のハイメ1世がマヨルカ島、バレンシア、ムルシアをイスラム教徒から奪還、カタルーニャの地中海進出の基礎を築き、その後継者らが「カタルーニャ帝国」とも呼ばれる地中海帝国を形成しました。この帝国時代にカタルーニャの歴史がカタルーニャ語で記されました。カタルーニャ商人は北アフリカのマグリブ地方、ギリシャのロドス島、キプロス島、西アジアのダマスクスまで勢力を伸ばします。また、首都バルセロナには地中海全体に権限が及ぶ商業施設ができ、15世紀初頭には商品取引所ができます。
1479年、カスティーリャとアラゴンが統一されることにスペインの国家統一が実現、カタルーニャはその政治的独自性を失います。14・15世紀に人口は激減、地中海の覇権はオスマン帝国に奪われます。また、大航海時代の到来によってヨーロッパの商業の中心は地中海から大西洋にうつり、16世紀から17世紀はカタルーニャ衰退の時代となってしまいます。
1701年にスペイン継承戦争が起こりますが1714年にバルセロナが陥落、カタルーニャはスペイン軍の占領下に置かれ、1716年には議会や政府が廃止され、公的な場でのカタルーニャ語の使用が禁じられました。
一方で18世紀にカタルーニャの経済は回復。農業・商業・綿織物工業が発展し、カタルーニャはスペイン随一の経済先進地域となりました。また、1836年にはバルセロナでスペイン初の蒸気機関車が導入されます。このような産業革命はスペインの他地域では外国資本に頼って行われたものの、カタルーニャは地元資本で押し進めました。
1833年に起こった第一次カルリスタ戦争によってスペイン旧政治体制が崩れ、カタルーニャの指導者たちは自由主義の流れに乗っていきます。19世紀半ばにはカタルーニャは「スペインの工場」となります。また、この時期にはカタルーニャ語とカタルーニャ文化の復興運動であるラナシェンサ(Renaixensa、カタルーニャ語でルネサンス)運動が起こり、19世紀末にはモデルニスモ(Modernismo)という建築や美術中心の文芸復興が起こりました。
1888年にはバルセロナ万国博覧会も開催されています。
1932年、カタルーニャ共和党左派という政治グループを通しカタルーニャ自治憲章が承認され、カタルーニャは自治の許可を獲得します。その後カタルーニャ共和党左派はジェネラリタットという政治を指導します。
1936年に勃発したスペイン内戦で右派の反乱軍を率いたフランコによってカタルーニャ自治憲章が廃止され、バルセロナは反乱軍に陥落されます。フランコ体制下ではカタルーニャ語とカタルーニャのアイデンティティの象徴に対する厳しい弾圧が行われ、カタルーニャの伝統的音楽・祭礼・旗、カタルーニャ語の地名などが禁じられました。1950年前後まではカタルーニャ経済は停滞しますが1960年代から70年代初頭のカタルーニャでは急速に経済成長が起き、外国資本の投資や観光客も増加。第三次産業が発展し、カタルーニャ語教育への関心も高まりました。
1975年のフランコの死によって独裁が終焉、1979年にはカタルーニャ自治憲章が制定されてカタルーニャ自治州が発足しました。
また、カタルーニャ州では2010年から独立への気運が高まり、デモ活動が活発化しています。
カタルーニャ州の文化
古くから地中海帝国として栄え、コスモポリタン的な土壌を持ったカタルーニャ州は独創的な文化、そして数々の芸術家を生み出しています。ここからはカタルーニャ州を代表する伝統行事と芸術家を紹介し、その文化に触れていきます。
人間の塔(Castells)
人間の塔(Castells、カステイ、カタルーニャ語で城の意味)はタラゴナ市郊外の村、バイス(Valls)を起点にカタルーニャに広まった伝統行事です。人間の塔はその名の通り、大人数で高い塔を構成する、世界最大規模の組体操です。大規模なものだと800人以上が参加し、一番下段の人の肩にはなんと300キロもの重さがかかります。
人間の塔の起源は15世紀ごろにバレンシア州の宗教行事で踊られた『ムイシェランガ(Muixeranga)』にあるとされています。そのムイシェランガが17世紀にタラゴナに伝わり、カタルーニャ全土に広がる中で宗教的要素と踊りの部分が無くなり、独自の発展を遂げ現在のような形になりました。
2010年にユネスコの無形文化遺産「代表一覧表」に記載されました。「ちから(Força - フォルサ)」「バランス(Equilibri、アキリブリ) 」「勇気(Valor、バロー)」「知恵、共通意識(Seny、セニ)」の4つが伝統的なモットーとされています。
高い塔を作るためには体重の軽い女性と子供の役割が重要で、とくに子供のメンバーを増やすことはチームの将来のためにも欠かせません。子供のメンバーはカナーリャス(Canallas、いたずらものたち)、と呼ばれ人間の塔以外にもキャンプなどさまざまな活動を通して他の子供たちやメンバーとの信頼を築いていきます。人間の塔は老人から子供までの幅広い世代が参加する、地域の重要な共同体として機能しているのです。人間の塔は年間を通して、カタルーニャ州のどこかしらで毎週末のように見ることができます。
カタルーニャ州の偉人
アントニ・ガウディ(Antoni Gaudi)
アントニ・ガウディはカタルーニャ地方のタラゴナ出身の建築家です。19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモの時期にバルセロナを中心に活躍しました。
ガウディの建築で最も有名なサグラダ・ファミリア(Sagrada Família、聖家族協会)は初代建築家フランシスコ・ビリャールによって設計され1882年に着工されましたがその後ビリャールは辞任、2代目の建築家として就任したのがガウディでした。
ガウディは模型と、紐と錘(おもり)を使った実験道具を用いてサグラダ・ファミリアの構造を検討したとされています。1936年に始まった内戦により、ガウディが死後に残した設計図や弟子たちが作った資料のほとんどが無くなってしまいました。その後、建造の続行自体が議論されましたが、職人の口伝えや大まかなデッサンなど、残されたわずかな資料をもとにその時代の建築家がガウディの構造を推測するという形で現在も建設が続いています。複雑で精妙、かつ壮大な、世界に類を見ない建築物としてすでに大人気の観光地となっていますがサグラダ・ファミリアはいまだに未完の建造物です。当初建築年数は300年ほどかかるとされていましたが、近年の技術革新によってその予定工期は150年と半分にまで削減され、2026年に完成予定と発表されました。
事前予約者専用の入り口である「生誕の門(Fachada del nacimiento)」は日本人彫刻家・外尾悦郎さんがその一部を手がけたことでも知られています。驚くほど緻密で精妙な彫刻でイエスの幼少期が描かれていて、バルセロナを表現する海ガメと陸ガメの彫刻が施された門柱も必見です。
ガウディが設計を手掛け、1900年から1914年にかけて建造されたグエル公園はカタルーニャのモデルニスモ運動の重要なパトロンだったエウゼビ・グエル(Eusebi Güell i Bacigalupi)伯爵が施主の分譲住宅でした。人々が芸術と自然に囲まれて暮らす、というガウディとグエル伯爵の共通のテーマのもとに作られた住宅は当時買い手が付かず、売れたのはたったの2軒でしかも買い手はグエル伯爵とガウディのみ。グエル伯爵の没後にグエル公園の工事は中断され、バルセロナ市の公園として寄付されました。公園の入り口に立つ門衛の小屋と東屋を見てサルバドール・ダリ(Salvador Dalí、カタルーニャ出身でシュルレアリスムの代表的な画家)は「砂糖をまぶしたタルト菓子のようだ」と評しています。
サグラダ・ファミリア、グエル公園、そしてカサ・ミラなど、ガウディがバルセロナで手掛けた建築作品は「アントニ・ガウディの作品群」としてユネスコの世界遺産に登録されています。
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)
ピカソは、おそらく世界で最も有名な芸術家の1人なのではないでしょうか。ピカソの出身地はアンダルシア州のマラガで、主にフランスで制作を行なったことで知られていますが、1895年から1904年にかけての多感な10代の時期をモデルニスモ運動が流行していた時期のバルセロナで過ごしました。
ピカソがバルセロナに移住したのは美術学校への入学がきっかけでした。その後マドリードの王立美術アカデミーに入学するもその古典的な授業内容に納得がいかず、アカデミーを辞めてバルセロナに戻ります。バルセロナに戻ったピカソが通い詰めたのが芸術家の集う下町のカフェ『クアトロ・ガッツ(Els 4GATS、4匹の猫)』でした。そこで年上の芸術家たちからパリという街の魅力について散々聞かされ、ピカソはパリを訪れることになったのです。
バルセロナ生まれの詩人で、ピカソが8歳からの親友で作家のジャウマ・サバルテスの尽力もあり、1963年にはバルセロナに「ピカソ美術館(Museo Picasso)」が開設。世界的に有名な作品があるわけではないものの、ピカソの子供の頃から晩年までの作品を、その成長と変化を時系列で見ることができる非常に興味深い展示内容になっています。作品はサバルテスが所有していたものが中心ですが、ダリやピカソ自身が所有していたものなども含まれています。
ジョアン・ミロ( Joan Miró i Ferrà)
ミロは1893年にバルセロナで生まれた画家です。ピカソ 、ダリとともにスペインの前衛美術の巨匠に数えられています。
ミロはまだ無名の時代にパリでピカソと出会い、その頃から親交を深めました。ピカソらの考案したキュビズムの手法を使った作品も多く制作しています。
ミロは1970年の大阪万博のために来日し壁画を作り上げていて、その作品は現在でも大阪の国立国際美術館で見ることができます。
ミロが自ら構想し、親友のジョアン・ブラッツと共に1975年に開設したミロ美術館はバルセロナのモンジュイック(Montjuic)の丘にあります。ミロは美術館の開設にあたり若い世代のアーティストをサポートできる施設にしたいと考え、美術館の一角は若いアーティストの作品の発表場所として用いられています。また、1986年には増築されて講堂と図書館が加わり、ミロの作品を所蔵、展示するだけではなく、スペインの現代芸術活動の中心地として機能しています。
カタルーニャ州の郷土料理
カタルーニャ地方の料理はカタルーニャ語で「mar i muntanya(海と山)」と称されるとおり、海と山からの新鮮な食材を活かす伝統を持っています。また、カタルーニャ料理はアフリカ、フランス、アラブの影響が及んでいるとも言われています。そんな独特の魅力に溢れるカタルーニャの食を代表する料理をいくつか紹介していきます。
パン・コン・トマテ(Pan con tomate)
パン・コン・トマテはカタルーニャの国民食とも言われる料理です。バゲットにニンニクと熟したトマトを擦り付け、塩とオリーブオイルでシンプルに味付けしただけのこの料理は、18世紀に初めて文献にその名前が記されています。
もともとは乾いて固くなったパンを美味しく食べられるように工夫したものだと言われていて、倹約家が多いとされるカタルーニャを象徴するかのような料理です。
パン・コン・トマテの上にはエスカリバーダ(Escalibada、ナスやパプリカ、玉ねぎなどの焼き野菜のマリネ)や、アンチョビなどの魚介類、ブティファラ(Butifarra、カタルーニャの松の実入り生ソーセージ)やフエ(ット)(Fuet、白カビ熟成の固いサラミ)などや生ハム、チーズやオムレツなどがのせられることもあります。
アロス・ア・ラ・カソーラ(Arròs a la cassola)
カタルーニャでは米は野菜としてとらえられていて、主に南部のエブロ・デルタで栽培されたものがさまざまな料理に使われています。アロス・ア・ラ・カソーラは「カタルーニャ風パエリア」と呼ばれています。パエリアは主にサフランが使われて黄色っぽい色をしていますが、アロス・ア・ラ・カソーラはイカ墨が使われているため、真っ黒!渡り蟹や海老、イカなどが使われ、魚介の風味をたっぷりと味わうことができるパエリアです。
エスケイシャダ(Esqueixada)
タラとみじん切りにしたピーマンとトマト、タマネギなどの野菜をオリーブオイル、ワインビネガーで味付けしたサラダです。海の幸と山の幸をオリーブオイルで和えた、カタルーニャらしい料理です。
カルソターダ(Calçotada)
カルスターダはカタルーニャの冬の風物詩として知られる料理です。タラゴナ県バイス村特産の、長ネギのような見た目の『カルソッツ(Calçots)』を焼き、外側の皮を剥いて中のとろりとした部分をロメスコ(Romesco)というパプリカやアーモンドで作るソースに浸して食べます。伝統的な調理法はぶどうの枝の上にカルソッツを直に置いて焼き、その後新聞紙で包んで蒸すというもの。
カルソターダは日曜日のお昼など、友人や家族が集まる際のパーティ料理として人気です。バイス(Valls)では毎年1月の最終日に『カルソッツ祭り』が行われ、カルソッツを品評会やカルソッツのヒガンテ(Gigante、カタルーニャ伝統の巨人人形)が練り歩くパレード、カルソッツグッズの販売などが行われます。
ほうれん草のカタルーニャ風(Espinacs a la Catalana)
カタルーニャ料理では松の実がよく使われます。このほうれん草のカタルーニャ風も、ほうれん草を松の実やアーモンド、レーズンとともにニンニクとオリーブオイルで炒め、シナモンで香り付けした郷土料理です。松の実とアーモンドのコク、レーズンの甘さとシナモンの香りがほうれん草の旨味を引き出したクセになる味です。牛肉のフリカンド(Fricando de ternera)
~牛肉の煮込みカタルーニャ風~
カタルーニャ人は日本人にも匹敵するほどのキノコ好きだと言われ、カタルーニャではマドリードやアンダルシア地方などをはるかに上回るキノコの種類が食されています。
牛肉のフリカンドはmoixarnonsと呼ばれるカタルーニャ地方で採れるキノコで作られる伝統の煮込み料理で、玉ねぎや牛肉、トマトやアーモンドなどが使われます。
クレマ・カタラーナ(Crema catalana)
クレマ・カタラーナはフランスのクレームブリュレによく似たカタルーニャの洋菓子です。カスタードの上にパリパリとしたカラメルがトッピングされていて、クレームブリュレとの違いは湯煎が行われないこと、クリームを使用せず牛乳だけを使う点です。
クレームブリュレはその発祥地を主張する地域がたくさんあるのですが、カタルーニャ人は「クレマ・カタラーナこそがクレームブリュレの祖先だ!」と主張しています。
カタルーニャ州のワイン
カタルーニャには古くからワイン生産の歴史があり、ギリシア神話に登場する三頭の巨人、へリオンがカタルーニャ地方にぶどうをもたらしたという伝承があります。考古学的にはローマ帝国がこの地域を支配する数百年前に、フェニキア人がワイン醸造技術を導入したと考えられています。
イスラム教徒の支配時代にはカタルーニャでもワイン生産量は大きく減少し、本格的な生産の復活には数百年を要しました。14世紀にはフランシスコ修道会の著作家がカタルーニャ産ワインについて「高品質だが強烈で濃厚でアルコール度数が高い」と記述しています。
しかし、近年では、D.O.Ca.プリオラートや、D.O.カバなどで高品質でエレガントなスティルワインや、美味しいスパークリングワインが製造されています。
カヴァについて
1551年に創設されたコドルニウ(Codorniu)社のホセ・ラベントスが1870年にはバルセロナ近郊のサン・サンドゥルニ・ダノイア(Sant Sadurní d'Anoia)でスパークリングワインのカバを生み出します。スペイン国内のカバ生産量の95%をカタルーニャ州が占めていています。
弊社のカバでは、アンフォラの自立しないボトルが印象的なアグスティ・トレジョ・マタ(Agustí Torelló Mata)社のの「クリプタ(Kripta)」、ビオディナミ農法の葡萄を使ったオーガニックワインのエウダルド・マッサナ・ノヤ(Eudald Massana Noya)社のブルット・ナトゥレ(Brut Nature/極辛口)とブルット・ ロサード(Brut Rosado/辛口ロゼ)などがあります。
まとめ
地域性の強いスペインの各州の中でも特に独自性に富んだカタルーニャ州の文化と食について、歴史をふまえながら紹介しました。
36カ所もの世界遺産登録地を持つ有数な観光地のカタルーニャは、豊かな食文化と11ものワイン産地を有した地域でもあります。さらにFCバルセロナの本拠地ということもあり、多くのサッカーファンにとっても魅力的な地となっています。この記事を読んだ方の中にもいつか行ってみたい!と思われた方は多いのではないでしょうか?この記事には盛り込めきれないほどのカタルーニャの魅力をぜひ、目で舌で味わっていただきたいと思います。